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interview 1989

 


 

■■インスタレーション作品  1    

 

あなたはロック・ミュージシャンとしてスタートしていますが、この数年のお仕事は、音楽のほかにヴィデオなどのヴィジュアルな表現、そして音と光を用いた総合的で独特なインスタレーションヘと向かっています。また、レコードやヴィデオ・パッケージなどによる作品発表よりも、特定の場所に特別な時間や環境全体を構築することに関心をもっているように思えます。このような表現スタイルあるいは形態の変化について、ご自身で説明していただけないでしょうか。

 

実際にはひとつひとつを終えて別の新しいことにとりかかるというわけじゃないんだ。全部を一緒にやっているよ。

 

 レコードやパッケージ・ヴィデオを新しく作るご予定は?20.jpg (17454 バイト)

 

予定はあるけど。

 

以前は、レコードやパッケージ・ヴィデオに対して否定的な発言をなさっていたようですが。

 

今でも嫌いだね。でも、全部が全部嫌いというわけじゃない。レコードが抱えている問題はつまり、現代の音楽がそれに集中しすぎているという点なんだ。まるで巨大な磁石のように、あらゆるものを引きつけてしまう。ミュージシャンはことごと<、レコードに引き寄せられてしまっている。ミュージシャンたちが現在やっていることは、音楽自体にはまるで関係がなくて、ひたすらレコーディング・録音に集中してしまっているんだ。

 

つまり、あなたは音楽がもっと別な形で聴かれることを望んでいるわけですか?

 

なんていうか、レコードが備えている可能性よりももっと幅広い可能性があってしかるべきだと思っているんだ。目下のところ、音楽産業は、レコードに何が録音できるかということに躍起になっているだろ。でも、レコードにはできない、もっとおもしろいものがたくさんあるんだよ。そいつを扱ってみたいね。たとえば、いろんな美術家たちが多彩な仕事をしているけれども、かりに新しく素晴らしいシステムができて、みながみな、12インチ平方で黒と白だけの作品を作ることになり、しかもそれしか生活の糧がなかったとしたらどうなると思う?音楽の世界で起こっているのは、まさにそれと同じことだよ。

 

いわばメディアに拘束されない、観客と作品の新しい開かれた関係をつくりだすこと……。

 

 そうだね。手近なメディアの新しい使い方と、手近なメディアの新しい聴き方という2つのことに関心があるんだ。

 

80年代前半におけるあなたの、またあなた以外の作家による環境音楽、環境芸術に関する主張は、そうした観客と作品との関係に何らかの変化をもたらしたと思いますか?

 

大きな変化が生まれてきたと思う。アートとデザイン、アートと日常的なものとの間の障壁が取り除かれたよね。ぼくのアンビエント・レコードのねらいのひとつは、そうした障壁を打ち壊すことにあったんだ。使い方が自由で、どのような聴き方をしようがかまわない、ごく静かに耳を傾けてもいいし、すっぽかしてもいい。でも、ほとんどの音楽は注意を払って聴かなくてはならないようにデザインされているんだ。ぼくはそんな注意なんかごめんだね。

 

そうした観客とアートの関係の変化は現代美術の世界でも起こっているでしようか?

 

たとえば、フランク・ステラ。彼のアートはかなり装飾的で、美しく、誰にでも楽しめる。ところが逆に、誰でも好きになるからという理由でステラにそっぽを向くアート関係の連中が多いね。大衆性というのはファイン・アートの世界では「大罪」と同義語になってしまったのさ。

 

絵画とか、インスタレーションとかいった形態の違いはあまり重要ではないんですか?

 

そう、重要じゃない、ぼくには絵は描けないしね。

 

あなたはヴィデオを光による絵画に、インスタレーション作品を音と光による彫刻に例えていますね。このような絵画、彫刻などの伝統とあなたの作品とはどのような関係にあるのでしょうか。

 

ヴィデオの作品はそれ自体の空間を備えていて、絵画とは違っている。テレヴィジョンとも違うし、映画でもない。エキジビションにやってくる観客を観察していると、かれらの作品の見方がとてもおもしろいんだ。きわめて長時間、ひとつの作品に向き合っている人もいる。30分とか1時間とか。絵画ではそれほど時間をかけて見る人はいないでしょう。絵画だと、たいてい2分から5分くらい。ヴィデオはテレビのショーみたいだけど、何も起こらない、でも、そこに佇んでしまう。これはかなり興味深いことだと思う。新しいものの見方なんじゃないかな。

 

観客とメディアをめぐって新しい関係が生まれているわけですね。ところで、あなたの作品が可能になる前提としてテープレコーダー、ヴィデオなどのテクノロジーや新しいメディアの存在はきわめて重要だと思いますが。

 

ぼくの場合、力点はメディアそのものの新しさではなくて、自分がメディアに対して働きかけられるかどうかにあるんだ。

 

メディアの使い方の方ですね。

 

そうだよ。その点がいちばんおもしろい。ニューメディアに起こってきたことは、たとえばテレビは映画から発明され、映画は演劇から生まれてきた。たいてい、以前からの目的を満たすために発明されてきているよね。そして新しいメディア自体がもつ可能性に人びとが気づくまでには、かなりの紆余曲折がある。つまり、新しいメディアの長所が古いメディアの模倣ではなく、もっと新しいことにあると認められるまでという意味だけど。

 

それでは、現在進行中のニューメディアやテクノロジーについてはどうお考えですか?

 

たとえば?

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たとえばディジタル・サンプリングの技術とか。

 

テープ・レコーディングと似たりよったりだろ、コンセプトとしてはね。ぼく自身はまだそうしたメディアをあまり使っていないんだけど。トランペット・プレイヤーのジョン・ハッセルなんかに聞いてみるといいね。ぼくにはほかにもやりたいことが山ほどあるので、あえて遠ざかっていたい気分だよ。

 

アナログの記録メディアと新しく精徴なディジタル技術とは根本的に違うとは思いませんか?

 

ぼくはアナログのほうが断然おもしろいと思っている。アナログ・メディアが大好きなんだ。自分でもディジタル・オーディオ・テープを使ってはいるけど、録音はいつもアナログでやっているよ。そして最終的な結果をディジタルにする。コンセプトとしても、アナログの方がおもしろいね。「これ」と「あれ」とに分かれてしまうディジタルよりも、その間の空間をそっくり含んだアナログの方が好きなんだ。デジタルはつねに選択を迫るよね。だから、ぼくにとっては、ディジタルの方がむしろ古くさくて、アナログ方が有機的で新しいと思っているよ。

 

ただ、結果を編集する側に立ってみれば、ディジタルの方がやさしいし、細部まで精緻に編集できますね。

 

まさにその通りだけどね。

 

ところで、あなたの作品は、音、画像、光など、かつては編集不能、制御不能だったものを編集する。もっとつきつめると、いわば時間そのもの、時間の次元そのものまでを編集の対象にしているように思えるのですが。

 

そうだね。光も音も、時間に深く関わっているだろ。ディジタルとアナログという観点から言えば、ディジタルは手で触れられないよね。ディジタルというのは、距離のある(手に届かない)メディアだ。ぼくとしてはキーボードではなく、素材に触れていたいんだ。テープ自体に手で触って、切ったり、つないだり……。

 

身体的なものとの有機的なつながりが、素材との間に感じられるというわけですか?

 

それだけじゃないんだ。もしも一日中タイプライターの前に座っていたりしたら、身体の調子がおかしくなってしまうよ。ほんとさ。あれこれ、ものに触れていないと。ギャラリーでぼくの作品を見てもわかると思うけど、まったく手づくりなんだ。つくっているときには、何日も何日も、ものをあちこち動かしている。ディジタルの場合には、動きの選択肢が限定されてしまうよね。ディジタルはこちらの選択を先取りしてしまう。だから嫌いなんだよ。

 

作品にはプログラマーではなく、ペインターとして関わっていたいというわけですね。

 

まったくその通りだね。

 

ところで、80年代には「ウォークマン」が登場しています。これは人びとを固定したオーディオ装置の前から都市空間へと解放することによって、音楽の聴取形態を変化させたと思うのですが。

 

うーん。「ウォークマン」は、ぼくにとってはひとつの謎だね。ぼくも一台もってるけど、ほとんど使わない。今まで、トータルで2時間くらいしか聴いていないんだ。「ウォークマン」がやっかいなのは、他の物音が耳に入らなくなってしまう点だ。「ウォークマン」の中に閉じこめられるのはいい気分じゃないね。音楽と同時に、他の音を聴いていたい。あれは自分の周囲に壁を作ってしまうだろ。その他の世界が存在しなくなる。ぼくにとっては気持ちのいいものじゃなかったなあ。

 

あなたのインスタレーションを見いると、一瞬一瞬の中にすべての記憶、時間、空間の粒子が結晶化されているような振動する時間を創り出そうとしているように思えますが。

 

それは興味深い受け取り方だね。たとえば、インスタレーションの行なわれている部屋にも大きな空調装置があるだろ。実は流している音楽はそのエアコンの音に合わせてチューニングしてあるんだよ。だから、基調音はエアコンの音になっている。ぼくはいつも、その部屋にすでに存在している雑音とか、音とかに関係するように音づくりをするんだ。エアコンの「ブーン」という響きにこちらの音を同調させてしまう。

 

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シブヤシードホールでのインスタレーション 1989

 

人びとの話し声はどうですか。

 

うん。声も好きだね。やっかいなのはむしろ、ほかの音楽なんだ。

 

観客のおしゃべりも気にならない。

 

「おしゃべりをしないでください」と注意したことはないよ。もっとも、たいていみんな話なんかしないけどね。

 

それは、会場に入ってきた人が、そこに違った時間の次元のようなものを発見して、自分の内面の中に入り込もうとするからじゃないでしょうか。

 

きっとそうだと思う、インスタレーションの行なわれている部屋は、そうしむけるためのさまざまなきっかけがある、暗いし、音楽もかなり静かに流している。もし音楽のヴォリュームが大きいと、人びとの声もつれて大きくなってしまう。逆に、ささやくような音ならば、人びとは耳を傾けようとするだろ。

 

ぼくは先ほど、そこには「違う時間の流れ」があるような気がするといいましたが、あなたにとってはそれはどういう「時間」なんでしょうか。

 

そうだね。例をあげれば、ニューヨークに住んでいたとき、ニューヨークとイギリスの違いを考えていたんだ。いちばん大きな違いは、かれらの抱いている、“now”(現在・今)という意識がきわめて短いんだよね。ニューヨークでの“now”は、5分前から5分後を意味している。もし、カラハリ砂漠に行ってみれば、あそこでの、“now”には、おじいさんのそのまたおじいさんの世代から、孫子の世代、その先の世代まで、実に幅広く含まれているんだよ。過去と未来に連綿と続く出来事のゆったりとした流れがあって、かれらの“now”はとっても巨大だ。ところが、ニューヨークの人々はきわめて短い“now”を生きている。同じように、“here”(ここ)も、ごくごく小さい、つまり、空間意識がかなり限定されているんだ。そして、ニューヨークで馬鹿高い家賃を払っている部屋でも、ほんのカーテン1枚隔てた外では、人が死んでいたりするんだ。

 

ついでに、東京はどうですか?24.jpg (11286 バイト)

 

東京は理解できないね。日本へくるたびに狐につままれたような気がするよ。

 

ところで、そうしたある種の字宙的な「現在」について、何かコスモロジカルなヴィジョンをお持ちですか。

 

そう言っていいのかどうかわからないけれどね。もし、あなたの“now”がとても短ければ、その中でのあなたのあなたはとても大きいことになる。その宇宙の中で最大のものがあなた自身というわけだね。でも、もしも、“now”が大ければ、あなたは字宙の中のその他諸々のひとつにすぎない。で、ぼくとしては、宇宙のささやかな一部でありたいと思っているんだ。巨大な責任なんてとんでもないよ。この短い“now”と小さな“here”という世界観は、個人の責任に過大な比重をおしつけてしまうんだ。宇宙の中心、出来事の中心とかね。

 

自己とか、エゴとかをどんどん微分していって、空間の中に溶け込ませていくような時間を作り出したいわけてすか。

 

そうだね。ぼくたちがその中ではたいして重要ではないような。

 

でも、それが単なる一時的な休息のための空間として受け取られてしまう場合については?

 

それでいいと思っているよ。アムステルダムでエキジビションをやったんだけど、美術館の場所はせわしいオフィス街のど真ん中だった。そこの地域の人たちがランチタイムごとに会場にやってきて、一時間ほどの昼食をとるんだ。6週間のショーが終わったとき、美術館には手紙が殺到した。「ランチを楽しみたいから、どうかショーを続けて下さい」ってね。そういう使われ方はいいと思うね。

 

それに関連して、オープニング・パーティで、新しい形の「クラブ」を作りたいというお話がありましたが……。

 

うん。ぜひ、やりたいね。「クラブ」という呼び方には抵抗がないだろ。「アートギャラリー」をつくりたいなんて言い出せば、きっと問題になるだろうからね。

 

つまり、かつてのファイン・アートの外に出て行かなくてはならないということでしょうか。

 

ファイン・アートの主要なメッセージは、今のところ「あなたは愚かだからこの難しい作品がわからない」ということに尽きるでしょう?多くのアーティストがそれを作品を通して伝えようとしているよね。「この作品はあまりに素晴らしすぎて、君たちにはわからない」。そこで、1枚の絵が8万ドルになってしまうという具合さ。 シェリー・レヴィーンとか、バーバラ・クルーガーといった人たちは、伝統的なステイタスに依存したある種のゲームをしているんだと思う。実際、3万5千ドルだよ。レヴィーンとかクルーガーという作家の名がなければ、いつたい誰が買うんだい。もしファイン・アートというパッケージがなけれぱ、誰も見向きしないさ。ぼくは、そういうパッケージを信用していないんだ。もしも、ぼくが作ったから、という理由でぼくのエキジビションが面白いのならば、ぼくは展覧会なんかしないね。ぼくの作品だからではなく、作品自体が面白くなければいけないよ。結局、「これは偉大な芸術だが、あなたにはわからないだろう」式の理論が夫手を振るっているんだ。

 

レコードという形態と同じように、伝統的なファイン・アートも…

 

変わって行くだろうね。株式相場と同じで、風船みたいにどんど膨らんでいって、ある日「バーン!」と破裂するよ。そこでやっと何百人もの人々が、わけのわからないものを掴まされていることに気づくということになる。

 

破裂するのは、いつころだと…

 

願わくば、明日にでも。

 

すると、あなたのアート・ディーラーが困るでしよう?25.jpg (10366 バイト)

 

じゃ、今週末にしようか。あなたたちの職探しの時間も必要だし……。

 

「クラブ」のように、いわゆる「アート」の制度から逸脱したさまざまな時間や場所を世界中に作り出していくような努力が重要だと考えているわけですね。

 

「重要」かどうかというよりも、ぼく自身がやりたいと思っているんだよ。

 

「つくる人間」と「見る人間」の関係が変わるだけでな<、そうした区別もいらな<なるような変化が生まれるのでしょうか。

 

そう願いたいね。もうひとつ大きな問題は、この世界が、「アーティスト」と「その他の人びと」に分かれてしまっていることなんだ。いろいろな技を備えた人びとがいて、相互につながっているよね。ぼくが好きなアーティストのひとりは庭師だよ。68歳の女牲だけど、ぼくには素晴らしいアーティストに思えるんだ。誰もそう認めていないし、彼女自身もそう思っていないけどね。

 

特殊な才能がなくても、誰でもが何かを創れるという意味では、ニューメディァの存在は大きいのでは?

 

ちょうど、ポップ・ミュージックでそれが起こっているでしょ?メディアにも善し悪しがあって、とにかく人びとの注目をアートに集中させるのが可能だよね。たとえば、シェリー・レヴィーンは有名で、誰でもが当然彼女の名前を知っていなきゃならないことになっている。メアリー・ブーンのギャラリーも扱っているけど……。もしも先ほどの境界があいまいになって、人びとが自分の目で選択するようになれば、もっと個々の観客の責任が問われるよ。
  一般の人の選択というのは、実におもしろいんだ。たとえばつい最近イギリスで出版された『Brilliant Gardens』という本があるんだけど、これは、ごく普通の人びとが自分たちの趣味で作った小さな庭を200例ほど扱ったものなんだ。こいつは、まったくもってみごとな彫刻の本だと言ってもいい。

 

アートの境界があいまいになることと、先ほどの「アナログ」との関係については?

 

「アナログ」は、言い換えれば「あいまい」でしよう?「ディジタル」は分断的だけども。あいまいなものは、人によってさまざまな受け取り方ができるよね。だから好きなんだ。全員がひとつの世界を経験しなければならないという考え方は嫌いなんだよ。現在のアートのマーケッティングがいやなのは、「この作家たちは重要だ。われわれが太鼓判を押すのだから間違いない」という一方的なやり方だからだよ。

 

しつこいようですが、「ディジタル」を離散的、「アナログ」を連続的と捉えた場合にも、音や画像を複製したり、自由に処理したりするには、ディジタルの方が……。

 

そう、ディジタルの方が確実性があって信頼できるね。ところが、いったん間違えてしまうと、破壊的で、取り返しがつかなくなってしまうんだ。アナログの場合、悪くなっても、その悪くなり方自体がおもしろい。ディジタルは、うまくいくか、いかないか、二者択一しかない。アナログならぱ、とてもいいとか、まあまあとか、多くの可能性があるでしよ?

 

ディジタル化した表現が身体のあり方を革命的に変えて行くという考え方についてはどう思いますか?

 

その意見に反対じゃないけども、いきなりアナログを忘れられるととは思わないなあ。アナログにはまだまだおもしろさが残されているよ。

 

ディジタルな技術を使って作品つくっているアーティストについては?

 

お話にならないほどひどい作品だと思っているけどね。ヴィデオ・アーティストの大半の作品は駄作だよ。

 

ところで、今回のあなたの作品は、ロシア構成主義や1920年代アヴァンギャルドの作品との関連が見受けられますが……。

 

ある意味では、ぼくたちは同じ精神をもつ時代環境に置かれているんだ。当時はロシアだけでなく、国際的な変化の時代を迎えていたよね。イギリスではヴィクトリア朝時代の価値が覆されてしまった。現在のぼくたちも、そうした変化をくぐり抜けようとしているんだと思う。シエリー・レヴィーンやバーバラ・クルーガーのほうが、いまやアカデミ一の側なんだ。だから流行遅れのアーティストさ。いや、『BT』が流行遅れでアカデミックだといいたいんじゃないよ。彼女たちがアカデミックなんだ。革命に身をすり寄せているふりをしながら、何の革命も起こしてやしない。大きなアートの世界の中で、ネクタイの柄の大小を競っているようなものさ、これがつまり、アカデミーで、みんながその無意味さに気づいたときこそ、革命が起こるんだと思うね。

 

それでは最後に…、先ほどステラの名前が出ましたが、ほかにあなたが関心を持っているアーティストの名前を教えて下さい。

 

ニコラ・デ=マリア−−イタリアのインスタレーション・アーティストだよ−−とか、ミンモ・パラディーノ、ロサンゼルスのゲリー・ステファン、ニューヨークのマイケル・チャンドラー、ヤニス・クネリスなんかだね。ぼくの発言を耳にしたら、きっと、レオ・キャステリとメアリ-・ブーンが殺し屋をよこすと思うな。

 

■■ドゥローイングはイーノのノートブックからの部分

通訳 Dorothy S.Hirokawa さん
翻訳 栗野康和 さん
インタヴユー構成 室井尚さん  どうも。

 


BT 美術手帳 1989.11  ( hataeno )