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interview 1989.10 

 


 

で、ヴィジュァルな試みとはどうつながってくるものなんでしょうか。

 

 ……まずね、僕のヴィジュァル作品に対するオーデイエンスの反応を見てて、僕が一番面白いと思うのは、皆、驚く程に熱心な興味を示すという.ことなんだ。例えぱ、絵画だったら2分眺めりゃいい方なんだよ。画廊で人の行動を観察したりしてるとよくわかるんだけど、普通は誰もが皆、絵の前を『ふんふん』と言いながら、ほとんど通り過ぎてしまうわけで、いい絵があると『ふーん』とちょっと立ち止るのがせいぜいってところなんだよ。ところがさ、ヴィデオ・インスタレーションだと、作品の前に人がじ―っと10分か15分くらいたたずんでたりする。でも、実は目ざましい変化が作品の中で起さてるわけではなくて、非常にゆっくりと変化が進んでるだけの話なんだよね。それでも、興味を引かれてるっていうのが僕にはとても面白いんだ。ショーによっては初めから終りまでずーっといる人もいれぱ、毎日、お昼にお弁当を持って来たりする人もいるんだよ。

 で、僕としてはなにか、今までの“ものの見方”とは違うものがあるからこういうことになると思うんだよ。つまり、ビデオ・インスタレーションが提示する“見方”は映画ともテレピとも絵画とも違うものであって、この辺の事惰がまさにアンビエントのコンセプトとも一脈通じているんだ。全く新しい体験を提供するということでさ。で、僕がなぜこうしたことにこだわるのかって言えぱ、当たり前のように聞えるかもしれないけど、新しいものの体験の仕方を見つけると、そこから導き出される体験も全く新しいからなんだ(笑)。だから、僕はいつも、自分の身の回りにあるもの、例えぱ録音スタジオ、テープレコーダー、シンセサイザーやテレビなどをいじってみては、何か別な使い方ができないものだろうかと考えたりするんだよ。

 例えぱ、今回のインスタレーションでも重要な役割を負っているテレビなんかもそういう意味合いで僕は使ってるんだ。今までテレビというのはイメージや画像の供給源として使われてきたわけで、それ以外の目的で使われたことは一回たりとてないんだ。でも僕はテレビを光の供給源として使ってみたらどうなんだろうという発想でやっているんだよ。僕にしてみれぱ、テレビは現存する発光装置の中でも自由にこちらの意のままになるシステムだと言えるからなんだ。他の発光装置でこのインスタレーションを再現しようとしたら、もうそれはほとんど不可能なこととなってしまうんだよ。でも、テレピだと至極簡単なわけで、これは誰も今まで思いつかなかった、テレビの利用法なんだ。

 使い方としてはひどく変わってるのだろうけど、僕のシンセサイザーの使い方も初めの頃はそう思われていたからね。『シンセはオルガンの一つのヴァリェーションとして使われるものなのだ』なんて会う人毎に言われてさ。スタジオの使い方にしても、録音前に何の作品も用意せずにスタジオに出かけては、その場で色々と試行錯誤を童ねてみるという僕の発想なんて前代未聞もいいところだったわけだし。僕がやるまでは誰もそんなこと試みたことがなかったはずだよ。録音技師なんて文字通りショックを受けちゃってね(笑)。『じゃあ、作品はどんな感じのものなの?』って言われても、僕は『これから考えるんだけど』なんて答えたわけだからね。

 

いつ頃のことなんですか?

 

 ファーストの時だから70年代の前半だよね。実際、あれに入ってる曲は全部、スタジオでいきなり作ったものだった。まあ、何曲かは出だしの感触くらいならあらかじめ考えてたけど、ほとんどがどれも、白紙で始めたものだった。でもさ、僕にしてみれぱスタジオが僕の楽器なんだよ。だって、僕は他の楽器はロクに弾けないわけだし(笑)。僕にはスタジオしかないんだ。かと言って自宅にスタジオを作るほどのお金もないから、いつもスタジオに入るまで何もしないでジツと我慢してるんだ(笑)

 

そういった実験的なアプローチは、今でもあなたの表現活動の基本にはなってると思うんです。ただ、今では、その実験性ではなくて、単に“ブライアン・イーノ”という記名性だけで作品が評価されてる、なんてことはありませんか。

 

  あるよ。確信を持って言えるよ(笑)。でも、それは僕にはどうしようもできない問題だからね。大方の場合、僕の経歴やその他は、僕に有利に働くんだ。でも、そんなことがあっても、僕は別に自分を恥じる必要なんかないと思う。僕は僕なりに懸命に、そして良心的に仕事をしてきたつもりだからね。僕はいつだって人をがっかりさせないように頑張ってきたはずだ。それにもし僕がろくでもない作品ぱかり作ってたとしたら、僕の記名性だってもっとマイナスに働くはずじゃない?それがある程度は前向きなものになってるわけなんだから、僕としては別に不満もないよね。確かに、そういうネーム・ヴァリューを獲得してないアーティストに較ぺたら、これはすこく有利なことなのかもしれないけど、でも、本当の話、どうしようもないからねえ、これだけは(笑)

 

 でも、その“ブライアン・イーノ”という記名性が、一部インテリ層向けの、いささかサロン的なものとして機能しているような危険性を感じたりしません?

 

 うーん、でもそれはただ単に僕が今話したことの裏返しのこどだと思うけど、僕のネーム・ヴァリューや僕に対する評価もあれば、必ずそれに反発する人もいるわけさ。だから、必ずそういう視点で外から僕の作品を眺める人もいるんだね。『イーノだって?あんなクソ面白くもねえゴミ聴いてられっかよオ』なんて呟きながらさ(笑)

 

 ところで、最近あなたはソ連のズキ・ムというバンドの制作も手がけていて、その動機として、ロシアのロックが60年代のロックと似たようなパワーを持ち、何かを変えようとしているからだという内容の発言をしていますよね。また、西側のロックはそういうパワーも失ってしまっ,たとも間接的に言ってるわけですが…。

 

うん、まさにそうだよ。何度か既に言ってるけどね、僕はこうした状況をロックのハリウツド化と呼んでいるんだ。ロックは非常に大人しい、飼い馴らされた音楽になってしまったんだ。

 

本質よりもスタイルを優先させる、という意味でですか。

 

 うん、そう。でも、実はこれはあらゆるポップ・ミュージックて起ったことなんだよ。ビッグ・バンド・ジャズや、ニュー・オーリンズ・ジャズ、ビ・バップなど、かつてはとてつもないパワーを秘めていた音楽はどれもパッケージ化される羽目になって終焉を迎えてしまったんだよ。パッケージ化されると、それだけでもう身動きがとれなくなるからね。勿論、パッケージしながらもそのパワーを活かすことだってできるんだけど、普通、そんな発想は誰もしないものなんだ。普通はある規格に何かをはめ込みたいと思うからこそパッケージ化を思いつくんだよ。そんなわけだから、今のパッケージ化されたロックなんて凡そ考えつく限りのものの中では最もつまらないものだと思うよ。ロックの話をするくらいなら、ヴェンチャー・ビジネスや気象学の話をしてる方がまだましさ(笑)。それだけつまらないものに成り果ててしまったということなんだ。もし、今僕がまだ20才くらいで、何か創造的なことをしたいと思ったなら、絶対にロックには興味は引かれないと思うね。ペインティングやパフォーマンスや映像なんかは考えたとしても、ロックにはまず手を染めないと思うよ。

 

 でも、ペインティンクの世界でも、色々と見てきた人なら「今のペインティングは全くもってつまらない」などと言ってるのかも知れませんよ。

 

 それが言ってないんだって(笑)。それどころかペィンティングは今、すごく盛り上ってるし、それは誰もが認めるところなんだ。とにかく、ロックが抱えている間題点というのは完全にレコードというものにがんじがらめにされてしまったことなんだ。言い換えれぱ、ロックが生み出すものはレコードだけになってしまったというのが問題のわけ。もはやツアーだって、ロックの産物ではなくなってしまったんだからね。ツアーはレコードを売るという目的しかもう持っていないし、それに90%以上のパンドにとってツアーとはもはや採算の合わないものでしかないんだ。だから、ロックに関わる人間はもう誰もレコードにしか目が向かないのさ。レコードというものが非常に大きな限界を含んだ手段であるにもかかわらずね。つまり、レコードを作るってことは本来、自分に出来るものの一部を人に伝えるという意味合いしか持たないはずなんだ。録音できないようなものもあるから、それは飽くまでも『一部』なんだね。

 例えぱ、パフォーマンス全体を録音することは不可能だし、またダイナミックスも往々にして録音し切れないことがある。耳がつぷれんぱかりの大音量にしても、これは不可能だよね。そういう風にレコードという手段には非常に大きな限界があるんだ。で、それはそれでしょうがないことだし、それをわかってやってるんだったら、別に何の問題もないんだよ。僕だって、何もレコードが嫌いなわけじゃない。ただレコードを作ってる側の人間の方がレコードの限界を考えるあまり、音楽に対してあまりにも画一的な見方をするようになってしまって、その見方から外れたことを誰もしなくなってしまった。それが問題なんだ。例えぱ、ペィンティングの世界でも、ロツクのように巨大なマーケティング・システムが確立されて、絵の描き方が規格化、されてったら、どうなると思う?もしね、その市場が強力なものに仕立て上げられて膨大な金が生み出されるようになったら、やがては誰もがその規格に合わせるようになって、それ以外の試みは全て失われてしまうはずだよ。結局、ロックでは今話したことが実際に起ってしまったんだよ。レコードの作り方の規格に沿わないものは全て失われてしまって、ひどく退屈なものになってしまったということなんだ。これがハリウッド的じゃなくて何だと言うんだい?

 だからこそソ連へ行った時は何もかも新鮮に思えたわけなんだ。つまり、レコードを尺度にした発想が存在してなかったんだよ。例えぱズキ・ムなどはパフォーマンスだけが彼等の表現の尺度になっているわけで、しかも、それもいわゆるパフォーマンスじゃないんだ。彼等には大会場でステージに立つ機会なんてほとんどないわけだし、しかも、彼等は元々自宅のアパートでパフォーマンスを始めた連中だから、コミュニケーションに対する発想もすごくオーデイエンスと密接なものがあるんだよ。例えぱ連中は演奏に合わせて顔の表情のパフオーマンスまでするわけで、そんなことこっちの世界じゃ思いつこうたつて無理な話だよね。9万人の観衆を相手にするようなステージを日常的にこなしているようじゃ、まずできないよ。まあ、そんなわけで、僕はソ連のロックを目のあたりにすることでこっち側のロックが失ってしまったものの多くを再発見することができたんだよ。

 

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                                                     pic by MITCH IKEDA

  奈良は天河弁済天での貴重なライヴ。環境音楽風のサウンドで、一曲が30分近くにも及んたためにキャパをはるかに超える800人もの観客のうち5割が熟睡、2割が必死で睡魔と戦う異常な光景が出現。ひょっとするとイーノはアンビエント理論のもと、音楽による人々の生理反応を分析する人体実験を行っているのではなかろうか?それにしてもステージにちょこんとおかれた盆栽と玉と石は何なんでしょうか。

 


 Rockin’on 1989.10 インタビュー 佐藤健氏