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interview 1989

 


 

 昨年の冬のグラミー賞授賞式でU2と共に壇上に登ったブライアン・イーノの姿は本当に奇異だった。常にシーンの辺境で活動を続けてきたイーノには、やはり、こういう舞台は似合わない。最近、イーノは自身のレーベル、オパールを設立したが、イーノ本人の役割は名義的なもので、オパール・マネージメントのアーティストをプロデュースする義務も自分の作品を作る義務もないのだ。実際、ヴイジュアル・アートに専念したいがために、イーノはもうあまり音楽とは関わり合いたくない雰囲気だ。ここはカリフォルニア州バーバンクにあるワーナー社のオフィス。雑然とした部屋を見まわすイーノの目にはアーハのポスターも他のものも見分けがつかないようだ。
  「実際、僕が自分で作ったレコードは売上げ的に成功したことはないね」とイーノは語る。「やっぱり、自分はアウトサイダーなんだという気がするね。こうやって座りながらこの部屋の中のポスターとかそういうものを見てても、誰が誰だか、全然わからないんだ。現代絵画や建築や思想の方がよっぽど精通してるよ」そうは言うものの、このようにシーンから遠のいたブライアン・イーノは、それゆえにポップ・ミュージックに対する正確な認識を持つに至った。既存のレコード・ビジネスに失望し、半ぱ隠遁者となったことが、彼の想像力と洞察力をさらに深めているのである。

 

 例えばU2のようにセールス的に成功してるアーティストのプロデューサーを引き受けた場合、あなたばどんな風にして仕事をするんですか。

 

  僕のところに来るアーティストには、自分達の音楽の中に潜んでいる可能性に気付いていながらも、それを引き出せないで困ってるケースが多いね。そうした場合には往々にして、自分達の可能性の前に、過去の業績が巨大なモノリスのように立ちはだかってることが多いんだ。このモノリスを人々が崇め始めるとね、やがてはそれが『文化的な偉業』であったかのように思い込ま されてしまう(苦々しく笑う)。もとはと言えば、その『偉業』もひょんなことから思いついたアイディアの一つに過ぎなかったのにね。
  そうしてしばらくすると、アーティストの中で、まだ使ってないアイディアが首を持ち上げだすんだよ、『そろそろオイラも使ってくれよ』ってね。でも、アーティストは今やモノリスと化した自分の業績を振り返ってみて足がすくんでしまうんだね、『それは、とてもできない相談だ』と言ってね。その時点でアーティストの多くは新しい可能性なんか放棄してしまうんだ。でもね、実のところを言うとね、これが成功への本当の秘訣なんだよ。ガッポリ稼ぎたきゃあ、いいアイディアを一つ使って、それにしがみつくことだね。他のことは考えちゃいけない。
  でも、まあそうも言ってられない人もいるわけで、そういう人は自分の隠された可能性をたまたま人に見られて『オッ、それ面白そうじゃん。使ってみたらいいのに』なんて言われると、それでもう救われてしまうんだ。そうすると、今まで発育不全に陥ってたアイディアが急に息を吹き返してきて、例のモノリスをブッ壊すのも気後れしなくなるし、自分の業績も何だか古臭く感じ始める。そうすると、この新しいものをやってみよう、これなら自分の可能性を拡げられるんじゃないかって気になってくるんだよ。で、僕がやってることは、こういうアーテイストのアイディアや可能性の種子に水をまき、豊かな土壌に植えかえてやることなんだ。

 

じゃ、U2もそういうものを内に抱えてたと?

 

 うん、彼らはもっと情緒的な側面を必要としていたんだ。それで、そのために手放さなければならないものもあった。つまり、彼らの人気の原因ともなった、大音量のロックン・ロール・バンドとしての性格を一旦、諦めなければならなかったんだ。もちろん、彼らは今でもビッグ・サウソドなロックン・ロール・バンドだげど、別な一面も兼ね備えたバンドに成長できたことも確かだと思うよ。でも、これはU2にとっては勇気のいる選択だったはずだよ。というのは『何でぃ、随分ソフトになっちまって、もうボケ老人だね』なんてファンに言われて見捨てられる危険性も大いにあったからね。まあ、僕なんか、いつも言われてるけどね。僕なんかは何かやると、それをネタに4年間くらいケナされるんだ(せせら笑う)、それで、ある日突然、皆にホメられ始めるんだ。それでいて、あいかわらず現在進行中の仕事は非難されっぱなしなんだよね。

 

 それで、こういう制作の仕事を引き受けるときなんかは、自分がどれだけその作品に関われるかということを基準にしたりしますか。

 

 うん。そうだね。やっぱりね、自分の名前がクレジットされたら、その作品への評価が結局、自分への評価につながってくると思うよ。だから、ある程度のレベルからは絶対に外したくないんだ。何か仕事を貰って、ホイホイと音の処理するようなやり方はできない性質なんだ。

 

 そうですか。しかし、また別な問題として、あなたと組んできたアーティストの多く、例えば、ション・ハッセルやハロルド・パッドといった人達なんかはあなたの名前がクレジットされているだけで 自分の作品が評価されてると感じてるんじゃないですか。

 

 うーん、でも、それは僕の責任じゃ負いきれない問題だよ。ライター側の姿勢にも問題があるんじゃない?結局、自分達がよくご存知の人達についてばかり延々と記事をタレ流してるだろう?僕だってね、そういうことに気をつけて常に一歩離れたスタンスをとってるんだ。『これはあくまでも合作なんだ』って念を押したりしてね。それでも効果ないんだから、しょうがないよ。

 

 ところで、古い話になりますが、トーキング・ヘッズの『リメイン・イン・ライト」のように共同作曲者としてクレジットされるのと、ただプロデューサーとして音に手を入れるのでは、あなたの場合どう違ってくるんですか。

 

 はっきりした基準があるわけじゃないんだけどね、音に手を入れることで、どれだけ曲のコンセプトが変わってしまった、ということかな。例えば、以前に使ったテープがその辺に転がってて、ある朝、突然、それにとりかかってみることにしたとしよう。オリジナルの3分の2までスピードを落して、もとの音を1つか2つを除いて録り直しをしたら、全く別のものになってるだろう?僕が曲を『書き直す』時には、これくらいのことはやってると考えていいね。でも、ヘッズのあのレコードはチョット違ってたんだ。僕は最初からバンドの一人として曲作りに参加してたんだ。まあ、組むアーティストによって、やり方もまちまちだよね

 

 昨年の9月の時点で、あなたは『早く出したくてたまらない』フィルム・ミュージックのアルバムがあると言っていましたが、先頃オパールから出た「ミュージック・フォー・フィルム VolV」がまさか、それだと言うんじゃないでしょうね。

 

 ああ、その話ね。それね、ちょっと方向が変っちゃったんだよ。今年の初めくらいにはシンセサイザーなんかを使って何曲か出来てたんだけど、オーケストラのような構造をもち始めて面白くなってきたんで、もう少し手を入れることにしたんだ。オーケストラといってもね、普通の管と弦というのとは全然、違っててさ、パカでかいアンサンブルという感じかな。それで、このテープを友達の作曲家のところへ持っていって、こう言ってオーケストラ用の書き直しを頼んだんだ。『例え ば、新しく発見された惑星を君が訪れて、そこでこのテープの曲を初めて耳にしたと仮定しよう。君は録音装置を持っていない。しかし、地球に帰ったら必ず、この音楽を再現させてみようと決意する。ところが、その時代にはシソセサイザーや電子楽器が地球に存在しないのでオーケストラしか使えないものとする、、君ならどうやる?』ってね。
 僕が今やってるのは大体そんなとこだね。もとのテープに入ってるサウンドは全然、オーケストラ向きじゃないからさ、いろいろ楽器を組み合わせて音を作らなきゃなんなくて、結構、面白いんだ、これが。かなり、手こずってるけどね。でも、ものを作り上げるプロセスでは、失敗したものの中にこそ、いろんな発見があるからね。

 

 ところで、あなたのそういう曲作りのプロセスでは歌詞というものが、あまり重要な役割を持っていないですし、あなた自身もそんなことを言っていますよね。そんなあなたが、U2のボノのように歌詞に重点を置いてるアーティストと仕事をする時はどんなふうに折り合いをつけるんですか。

 

 じゃあ、君は連中が意識的に歌詞を書いてると思ってるんだね?でも、僕に言わせりゃ、それは違う。彼らは決して意識的に歌詞を書いてるわけじゃないんだよ。僕は連中が曲を作るところに立ち会ってるわけだけど、かなり即興で曲を作ってるし、ボノの歌詞にしても同じだよ。でも、即興でやってると突然、いいフレーズが飛び出してくるものなんだ。そういうフレーズは例え意味不明でも、ピッタシくるものなんだ。だから、結局、そういう歌詞が曲の中核となっていくものなんだよ。
 でも、ボノとそういう話をしてると水かけ論になってしまうんだよね。ボノが『歌詞に何かを言わせたい』と主張するから僕も言ってやるんだ、『歌詞というものは、君が手を加えたりする以前に、もう既に何かを語ってるものなんだ。だから、余計なことは考えない方がいい』ってね。するとボノは『ああ、そうだね』と口では言うげどさ、何せアイルランド人だからね。頑固なんだよ。

 

 でも、U2の歌詞にはかなり意図的な意味が含まれてると感じてる人は多いと思いますよ。

 

 同じ様に僕の音楽も意図的な狙いがあって作られてると思ってる人も多いはずだね。

 

そうですね。

 

 でも、そういう発想は、想像力が余りにも欠けているし、考え方としても、たまらなく古いよ。だって、そういう発想には『じゃあ、このピアノのパートにはどういう意味があるのか』とか『このギターにはこういう意図があるんだ』という配慮は全く欠落しているだろう?でも、こういうパートにだって、それぞれちゃんと意味はあるんだ。僕がやろうとしてるのは、楽器のバートの意味と歌詞の意味を同じレベルで捉えることなんだよ。だから、僕にとって歌詞の言葉の語義はどうでもいいことなんだ。その歌詞が持つ響きとかリズムが大切なんだよ。
 また、語義的にアホとしか思えない歌詞だらけだからね、それで嫌気がさすところもあるよね。『ベイビー、お前のボディを感じたい』とか、そんなのばっかしだろう?僕の狙いには、そういう陳腐な意味性を歌詞から全て排除していくということも含まれているんだ。言葉にできるだけ、多様な暗示性を持たせる--僕がボノにアドバイスをしたのは、大体、そういうことだね。末枝にこだわるよりは、大きな流れを捉えるように助言したつもりだよ。
 それと、時代性という問題もあるよね。つまり、サウンドそのものが古臭くなる前に歌詞が時代遅れになってしまうことがよくあるからね。

 

 そういうあなたもゴスペルは好きで、自分で歌うのも好きだと聞いたんですが、それはどうしてでしょう?それにゴスペルというと、どうもあなたには余りにも情緒過剰という気がするのですが。

 

 そうだね。だからこそ、好きなんだけどね。それに、今、僕がボーカルをとったら、昔と較べものにならない程、エモーショナルなものになると思うし。ただね、不思議なのは、ゴスペルの情緒性が個人の枠を全く超えてしまってる、ということなんだ。まるで、人類共通の感情の共同タンクから引いた水道をひねるような体験なんだ。そういう感情ってね、個人的な感情や、女の身体に触れたいという衝動なんかとは全然、違うんだ。個人という器じゃ計りきれない、すごく根が深いものなんだよ。それと、さっきの話とも関連してくるけど、僕が自分のボーカル・スタイルに感情的なものを持ち込まなかったのは、個人の 人間関係から生じるような感情は排除したかった、ということもあるんだ。ゴスペルにはそういう個人的な絡みからフッ切れてしまってるところがあるからね、僕には違和感がないんだ。実際、こうして話してる今も、教会へ出かけてゴスペルを歌いたい気分だ」

 

 ゴスベルの持つ、精神性みたいなものにひかれるわけですか。

 

 うん。まぁ、ゴスペルに含まれる宗教的な価値観とか、そういうものは除いた上での話だよ。とにかく、ああいった精神性はすごく好きなんだ。日常の中にああいう精神的な場を作り上げるという発想が好きなんだよ。そういう関係でいろんなゴスペル教会にも行ってみたげど、やっぱりどこも、その地域杜会の中心として機能してるところが興味深いね。かつて白人の杜会で教会が果していた役割を未だに持ち続けてるんだよ。礼拝に顔を出してみるとさ、延々と6時間もやってたりしてさ。子供の遊び部屋もあるしね。時々、途中で牧師さんが結構どうでもいいようなことで、わざわざ礼拝を中断させたりしちゃうんだよ、『すいませんが、あなたの車、ちょっとどけてきてくれませんか?』とか言ってね。何だか、とても世俗的に思えるところがあるんだけど、そうじゃないんだね。普通の人がね、『自分には信仰心が足りないんじゃないか』とか思って、いちいち自分を試す必要がないんだ。僕はそういうのがとても好きなんだ。

 

 実はあなた自身に、そういう共同体に帰属したいという願望があるんじゃないですか。

 

 うーん、でも、誰でもそういう願望を持ってるんじゃないかな。僕だけの間題じゃないと思うよ。こういう共同体に自分を任せるというのは、結局、個人としての自分の存在を稀薄にしていくことだからね。こういうのって、今、割と必要とされてることなんじゃないかな。というのは、今の杜会のシステムは余りにも“個人”を強調し過ぎてるからさ。だからさ、“自分”を放棄して大きなシステムに身を委ねてしまうような場に居合わせるっていうのは面白いことだよね。災害や地震、戦争なんかがないと、なかなかこういう場面にでくわす機会がないからね。

 

 じゃあ、ロック・コンサートも結局、そういう場として機能してるんでしょうかね。

 

 そうだと思うよ。U2をローマで観た時なんかは、もう巨大なゴスペル・ショー、という感じだったね。ちょっと、口じゃ言えないような、興奮があったなあ、音楽を媒体にして6万人くらいの人々が集い、一つになったわけだからね。で、皆が曲に合わせて歌うんだよね。それでまた、何度もボノが観衆に歌わせるんだよね。まあ、とにかく素晴らしい体験だったよ。

 

 70年代の半ば頃などは、あなたは新しい音楽のチャンピオンのように思えたんですけどね、ディーボやウルトラボックスのデビュー作を制作したりして。でも、最近、そういう話題はサッパリですね。

 

 ソ連で一つプロジェクトを考えてるんだげど、これは全く無名のバソドだし、またレコードを発表させるつもりはないんだ。それには理由が二つあるんだ。一つは僕自身、レコード制作に対する興味をかなり失ってしまったということだ。それに、今や、僕にはヴィジュアル・アーティストとしてのキャリアもあるから、レコードを制作する暇もなかなか捻出できないんだ。そして、二つめには、今、音楽がのっかってるレコードという媒体が活力を失ってしまったということだ。レコードというのは音楽体験としては、随分、貧弱なものだしね。だから僕が考えてる次の段階は“録音不可能な”音楽なんだ。もちろん、ライブ演奏なんかはレコードよりも柔軟性があると思うけど、やっぱり、録音されるということが常に頭にあるわけだからね、だから、ダメなんだ。今のジャズもそんな感じだよね。まとまりがよくて、リハーサルを重ねましたって感じだろう?生演奏というよりレコーディング、という雰囲気だね。

 

 しかし、あなたは民主的で広範な媒体としてポップ・メディアに関心を持ち続けてきたんじゃないですか?この『録音不可能な』音楽というのはあなたのこれまでのアプローチと矛盾してくると思いますが。

 

 そうなんだ。これは言わば、一つのパラドックスなんだ。でも、避けられない問題なんだよ。だから、一つの解答として、一つの空間としての音楽を作り上げてしまったらどうだろうと思ってるんだ。コンサートに出かけるとか、レコードを買いに行くのとは違う『ある音楽的な場所へ出かける』というコンセプトなんだ。そこではある音が絶え間なく流れていて、パフォーマンスが永久に続くという感じなんだ。音の彫刻とでも言えばいいのかな。画廊で作品を見るのと同じでね、演奏者抜きでも、いつでもパフォーマンスが体験できる、まあ、そういう場を考えてるんだよ。

 

 あなたの音楽の中でテクノロジーの存在が大きくなりすぎて、そういうことを考え出したりしたんですか。

 

 というかね、レコードそのものが面白くないんだよ。一時期はね、レコードの存在そのものが刺激的だったんだけどね。今は、レコードの数そのものが多すぎるんだ。ドイツにいた時なんかね、ラジオのバンド・チューナーをクルクル回しても、40か50の放送局が皆、同じ音を出してるんだ。技術的に、皆、同じ視点なんだね。今、録音された音楽で刺激があるのは、この録音に関する規範を壊してしまうようなものだね。例えばね、よく人からデモ・テープを貰ったりするだろう?すると内容は恐しくつまらないのに、録音状態が余りにひどくて耳が離せないものもあるんだ。要するにね、録音という作業そのものがハリウッド的な発想になってしまったから、こんなにつまらないんだよ。透明度バランスなどと、全てにおいて首尾よくできてないとダメなんだね。本物っぽいサウンドじゃなきゃレコードじゃないという非常に浅薄な考え方があるんだ。それに較べると、さっき話したデモ・テープなんかは音が全部、潰れちゃってて、もうスゴイもんだよ。

 

 でも、そういう考え方って、このCDの時代においては異端といってもいいですよね。

 

 そうなんだ、だから、あんなもん嫌いなんだ。あれが普及してからというもの、皆、ピカピカに音を磨くことLか考えなくなったからね。

 

 まあ、そういう性格のあなたが例えばU2みたいなバンドのプロデューサーになることに、何か皮肉みたいなものを感じません?

 

 いいや。僕はね、ポップ・オーディエンスが大好きなんだよ。ごく普通の観客層というのかな。アートの世界と比べるとね、ポップ観衆は信じられないほど、ストレートで正直だからね。それに、皆が考えてる以上にポップ観衆は許容力が広いもんなんだ。ラジオの企画制作スタッフ、音楽ジャーナリスト、レコード会社のどんな連中より視点が広いと思うよ。
 それに嗜好も、プロ・アーティストの何歩も先に行ってるんだよ。これがポップ・アートの面白いとこなんだ。通常は大衆がプロ・アーティストを追っかけてるような図式を考えがちだけど、本当はその逆なんだ。特にイギリスじゃそうだね。 例えぼ、パンクなんかは一部のデザイナーや仕掛人がいて始まったわけじゃなかったから、プロの連中は、状況を把握するまで一年くらいかかったんだ。そして、やっと見えてきたら、それに乗っかった(笑)。パンクは街中の普通の人達が作り出したムーブメントだったから、才能に恵まれてるようなプロ・ミュージシャソ的発想は全く介在しないんだ。だって、ああいう音楽じゃ、プロのプロたる所以がわからなくなってしまうだろう?だから、そういうプロは、その状況を全て抱え込んじゃうわけだ。それで、『ああ、彼らは才能がある』とか言って自分の側につけちゃうんだよ。
 同じ様な状況がアートにもあったんだ。グラフィティ・アートが急に出てきた時にね。最初はかなり、脅威的な存在だったけど、次第に既存のプロに抱き込まれていっただろう?

 

 画廊に出品させてもらったりしてですか。

 

 そう、そう。注目に値するのは3人か4人に過ぎない、とか言ってね。でも、既存の違中は素直に認めればいいんだよ。『グラフィティ・アートばポップ・ミュージックと同じで、誰にでも参加できるアートで、とても面白いものだと思います』ってね。でも、そんなこと言い出したら、自分達の既得権を失ってしまうんじゃないかと心配しているんだろうね。

 

 でも、どんなアートでも、そんなもんじゃないですか。

 

 芸術はそうかもしれない。でも、。ポップ・アートは違う。もう、これっきゃないという程のものじゃないけど、でもやって気分のいいものはあるよね。特に、ポップ・アートの世界じゃ、誰もオゴらないところがいいよ。『いい音を出すためだったら何でもやってやる』という気心が僕はとても好きなんだ。

 

 


rockin'on 1989.1