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interview 1986  summer


 

 貴方の音楽が魅惑的であることに対して心配はありませんか。今日の人々は美に対して不信感を抱いていると思うのですが。

 

 しかし、芸術の大部分はある意味に於いて圧倒的な経験を創り出すことによって人々の関心を得てきたのではないでしょうか。何故14世紀に大聖堂が建てられなければならなかったのかを考えてみて下さい。私はそれがどういう風に感じ取られていたかを想像してみたいのです。我々の殆どは音楽を聴いてうっとりした気持ちになることの方が、音楽に後ろから押されるよりは断然心地良いでしょう。大聖堂に於いて得られた体験とは恐らく神々しいものだったに違いありません。ステンド・グラスを通してその神々しい光を見るのは、あの時代に於いて他では得られない体験だったでしよう。芸術には二つの大きな流れがあります。ひとつは物事を普通の生活そっくりにしてしまうもの。もう一つは物事を完全に特別なものにしてしまうもの、例えば大聖堂のように人々を驚嘆させるものです。しかし普通であることに焦点を絞ると或る視点からみればそれはいつも驚嘆できるものです。私の初期のヴィデオ作品やアンビエント・ミュージックは平凡なところに位置しているのでその平凡さを一風変わった魔法にかかったものにしています。新しいヴィデオ作品は特別なところに位置するように慎重に仕上げました。以前は音の面だけで試みていたことを今はあらゆる面に実行しています。

 

 人々はレコード音楽に対して何か特別な反応をするものだと思いますか。

 

音楽にはせつ那的に私たちを違う場所へ違れていく感じを与える働きがあると思います。永い間旅行をしていたとき、私は何時も45本のカセット・テープを持ち歩いていました。それらは確実に或る特定の状況を私に与えてくれると分かっているテープでした。例えば手紙を書きたいと思うときには、あるテープを掛けるとその音楽が手紙を書く空間を与えてくれるのです。勿論そういうときに書くのは真面目な手紙、つまり色々な事について深く考えたいときに友人などに宛てる手紙です。仕事上の手紙を書くときはそれ用に別のテープがありますから…アレサ・フランクリンやその他調子の良い音楽だとそういう手紙がはかどります。私のように放浪の生活を続けていると、或る場所に自分を呆持しておく、或いは場所の感覚を与えてくれる唯一のものが音楽なのだということが分かったのです。伝統的なコンサート音楽と、レコードになった音楽の違いは何なのかと考え始めたのはこの時です。レコード音楽なら貴方は自分と一緒に連れ歩くことが出来ます。

 

 音楽が瞬間的に私たちの記憶に作用するというのは面白いですね。しかし音楽は例えば予想もできないような、我々を驚かせたり変えたりする新しい体験をさせて呉れるようなことはないのでしょうか。

 

 それは私がゴスペル・ミュージックを聴いたときに起こりました。あれで人生が変わりましたね。それ以前にもステープル・シンガーズやエドウィン・ホウキンス・シンガーズの「オー・ハッピー・ディ」などを通じてゴスペルには興昧を持っていたのですが、いちばん初めに本当に感動したのは1978年のことでした。トーキング・ヘッズのレコーディングでバハマに滞在していたのですが、私たちはアメリカの何処か南の州のラジオ放送を受信することが出来たのです。恐らくミシシッピ州の局だったと思います。ある日曜日の朝のことでした。ラジオをつけると、「Surrender To His Will」という曲が流れてきました。歌詞は殆ど聞き取れなかったのですが、Surrender To The Wheel と歌っているように聞こえてくるのが何か非常に奇妙な感じで、その曲にある種終末的な感じを与えていました、本当に素晴らしい曲だったのです。私はそれをマイクロ・レコーダーに録音してずっと聴き続けていました。その後そのレコードを捜してみようと思いゴスペル・ショップへ出掛けて行って200枚位の素晴らしいゴスペル・アルバムに出会った後にその捜していた一枚を見つけたのですが、そうして探す作業のなかでゴスペルは何と素晴らしい音楽形式なんだろうかと思ったのです。とてもシンプルな形になっていますが、それは原型が変化して装飾されたものです。生気に満ち、今だに変化し続けています。新しいスタイルが生まれても伝統的な形式は守られています、実際ゴスペルを聴く私の姿勢は宗教的です。日曜日にはゴスペルのレコードを掛けるのです。面白いことに時々日曜日だということを忘れて仕事しようとして、マハリア・ジャクソンを掛けて一緒に歌っていると「ああ今日は日曜日なんだ」と思い出すこともあるんです。

 

 先程、教会音楽がもたらす畏敬の念の意昧のところでステンド・グラスと光について述べられましたが、貴方のこの装置の音楽を聴く人は同時に光も体験するわけですね。しかし貴方の光源及び色源は窓から差し込む光ではなくヴィデオなのではありませんか。

 

 これらの装置が備えている物理的な効果は、人問の色に対すよ感覚を高めることです。因習的な理論では人聞の眼は光のなかの赤・緑・青という要素を織別し、それからその物体はなに色なのかを判断するのだとされています。しかし眼はそのように働くのではないことが判ったのです。エドウィン・ランドは数年前に行った実験のなかで人間の眼は非常に少ない色の情報だけで何色かを識別できることを発見しました。私たちが物を見るという、ことは即ち自分が見ている視野のなかの光の反射を理解しているということなのです。だから「これは赤と青と緑の混合物であるからこの色は水色なんだ。」ということにはなりません。そうではなく「この色は何色だと感じられるか?」という問題なわけです。我々の限は常に我々が発見を期待しているものに関するあらゆる判断を行っています。このことは芸術及び知覚に対して非常に大きな重要性を持っていますし、これを面白い方法で利用することも出来ると思うのです。

 

 貴方のヴィデオ装置では何も起こっていないと言う人が時々いるのですが。

 

 私は現在人々が絵に対して持っている期特を同じように音楽に対しても持って頂きたいのです。もしも自分の部屋の壁に絵が掛かっていたなら、常にそれを注意して見ていないと気が済まないというもものではありません。それはそこに掛かっているのです。多分今日ちらっと見て明日も恐らくそうするでしょう。これは環境の連続部分のなのです。即ち我々が絵画に対して期待していることです。ところが音楽やヴィデオとなると我々は未だにそこに一種のドラマがあることを期待しています。私の音楽やヴィデオも変化はしてゆきますが、その変化の速度が遅いのです。それはちょっと逃すとまるで何事も起こっていないかのように思える変化です。だから私はあの装置を人が暫くの間座っていられるような場所に設置するように努力しています。面白いと感じれば人は其処に留まっているということを発見しました。そこで感じたのですが、人々が多くの刺激や絶えず変化していることを求めているという今までの商業主義的な概念棚念は全く間違いだったのではないでしょうか。私が以前いたポップ・ミュージックの世界では社会は基本的に非常にだるいから常に刺激を与えてやらなければいけないという考え方がありました。だから全てが変化と驚きで固められているのです。

 

 ヴィデオ・アーティストのなかには意識的にテレビ番組を真似した作品を作る人もいて、そのような作品は現在の商業主義的テレビ番組の視聴者には受け入れ易い訳ですが、貴方の作品は全く反対の方向性を持っていると思うのです。娯楽を目的とした仕事ではないですね。

 

 ミニマリズムが根本にあるというのがその理由です。ミニマリズムとは芸術への厳粛なアプローチなのですが、幾何学的で硬質で無色なものを意味するようになってきています。何故「ミニマリズム」がそういうものを指すのかは分かりませんが。それは何かを付け加えるのではなくて形を変えることによって何が出来るかを見る決意だと言えます。私の音楽もヴィデオも少しの要素を数多くの方法で再結合して作られています。スティーブ・ライヒの音楽がなにかを私にもたらしてくれたと自認しています。私が現在していることとポップとを交差させるのは困難です。何故ならホップ・ミュージック界ではコピーするということに誰も当惑感を持ちませんから、「この曲いいね。こういう風にやってみる。」という調子ですから。あるサウンドを追放したりせずに全て取り入れてしまうわけです。以前誰かのレコードを制作していたとき、メンバーがスタジオに他のミュージシャンのレコードを持ってきて「このべースとドラムの音を聞いてみて下さい。こういうのがしたいんですよ。」と言う人もいました。まあ非常にてっとり早い方法とは思いますけれども。
 正確で一貫性のある再生のために作られたテククノロジーを、多様性の生成のために使用するというのがライヒの概念でした。彼はそれを「It's Gonna Rain」(1969年)と「Come Out」(1966年)の中で実際にやっています。イッツ・ゴナ・レインは或る人間がずっと。イッツ・ゴナ・レイン。と繰り返しているテープなのですが、それを一台の機械で再生し、同時にもう一台の機械で全く同じテープを再生するのです。完壁に同じスビードで回転する二台のテープ・レコーダーなどありませんからこれらのテープは最初はピッタリ重なっていても次第にずれが生じてくるわけです。すると初めはエコーが掛かっているように聞こえ段々と交差し始め、ついには180度ずれることになります。これは非常に興味深かったですね。

 話は少し脱線しますが、人間の耳は蛙の目と同じ機能をするという面白い説があります。「What the Frogl's Eye Tells the Fra's Brain 」というエッセィを書いたウォーレ・マクロックという人は蛙の目は人間の目とは全く違った風に働くことを発見しました。人間の目は常に動いていますが、蛙は或る風景に対して目を固定させてしまうのです。するとその風景の静止している所に関しては見えなくなるのですが、なにかがちょっとでも動くと、それは蝿などの獲物なのですが、それが非常に強いコントラストで周りの風景から浮き上がるのです。これだけが蛙の目に映り舌で捕らえるというわけです。
 ライヒの曲中で起こっていたのは即ち我々の目を蛙の目のように機能させることなのではないかと私は思いました。両方のテープには同じものが録音されているのだから私たちの注意が向くのはその繰り返している部分ではなく、その間にある瞬間的なバターンの部分なのです。ずっと聴いているうちに貴方の耳はもっともっと細かい、私にとっては音の原子と思えるような部分まではまり込んで行くでしょう。あの作品は本当に私をゾクゾクさせてくれるものでした。何故ならミニマリズムとは一体何なのかをその時理解出来たのです。聴くことは創造的な行為です。それは正に受け身の聴衆がそれをどう受け取り表現するかの問題です。恐らくライヒの作品を聴いても「あれは頭のなかを槌で打ち続けられるような声の作品だよ。」と言う人もいるでしょう。確かに特別にちゃんと聴かないとそのようなものに聞こえるだけでしょうが。

 

 媒介物を結び付けて多くの要素をまとめ新しいものを作り出すという貴方の才能は仕事全般に及ぶものですが、そうすることのポイントとは何ですか。

 

 私にとって芸術とは物の質ではなく寧ろ人と物との間で処理されるべき行為です。この行為に従事するときには我々はしかるべき精神的な防備を捨て去って、完全に理解出来ない事柄に付いても身を任せるようになります。感情の力や理性の力に負かされてしまうわけです。これについてモース・ペックハムの書いているのを参照してみるとよく分かります。彼は芸術とはリハーサルという形で私たちに用意されたところの贋物の現実と言いました。ペックハムは人間の頭脳が(物事を定義し、区別し、分類し、予想する)いかに強い傾向を持っているかについて書いています。他の動物と比べて筋肉や走る速度は劣っていますが、この能力が人間をここまで発展させたのです。人間の頭脳は絶えず自分の周囲の環境についての推測を行い、又絶えず外界に適応するものは何であるかという区別を行っています。ペツクハムは同時にその作用が人間を誤りに陥り易いことも指摘しています。私たちは新しい環境に直面したときには何時でも過去の経験に基づいた推測という工程を繰り返しますが、その判断は必ずしも正しいとは限らないのです。私たちは誤った分類をし、それに基づいて誤った行動をします。
 しかし私たちにはもう一つの方法が残されています。即ち判断をそのまま保留して暫くの間不確かな状態でいられるのです。ペックハムが言うには分からないままの状態に耐えうるというのは後天的な能力で芸術のしていることとはこの不確かさに耐えうるという訓練なのだそうです。芸術を鑑賞するという行為が我々にもたらす機能の一つに心理的な孤立感があると考えました。美術館は囲まれた世界なので其処では危険なことなど起こらないでしょう。例えば突然ピストルで撃たれることなどないだろうという意味で。だからこそ私たちは美術館では生命を脅かされるようなことなしに精神的な危険に身を委ねる余裕を得ることが出来るのです。そして不確かな気持ちを耐える(耐えるだけでなくこれに脅かされることもあるでしょうが。)このことが知覚と行動を創造的な基盤として用いることに繋がるわけです。
 私が9歳の時に初めてモンドリアンの絵を見た時のことを思い出します。それは本当に感動を受けたいちばん最初の絵でした。なぜこの絵は私にこんなに衝撃を与えるのだろうという、非常に不思議な気持ちを抱きました。モンドリアンの作品にはこんなドラマティックな印象を与える要素などないと思われているようです。もしあの時私がもっと歳を取っていたなら、その絵と自分との関係について何か理論づけようとしたでしょうが、それが何時であろうと、どんなパイプが私とモンドリアンを結び付けていたのであろうと、私が芸術から得たいと思うのは感情なのです。単に素晴らしいアイデアや材料を上手に処理するだけを求めているのではありません。アーティストであることの目的の一つは貴方自身がどうすることも出来ない状態に何らかの安らぎを与えることです。自分ではよくわからない、最早自分をコントロールすることも出来ない状態であっても貴方は何かを生むことが出来るのです、トンネル掘りに対立するものとしてのサーフィンみたいなものです。トンネル堀りという作業も必要ではありますが、芸術家たちが好むのは、いまだに自分たちのしていることが好きだとすればの話ですが、サーフィンの方でしょうね。

 

ANTHONY KORNER
BRIAN EN0
ARTFORUM INTERNATIONAL summer1986

 


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