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interview 1984


 

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  ポップ・スターは上品な感じのしない人種である。買ってきたばかりの正方形のチューイングガムのようにまっすぐに並んだ歯は大衆新聞の特集記事の写真のなかでぎらぎらと輝き、ヘアスタイルは非難の的となる。フアンは彼らのファッシヨンに追随し私生活は好奇心に満ちた世間の関心の対象となる一方で、彼らの音楽はたいていターンテーブルの回転が止まる前に忘れられてしまう。
 しかしポ.ツプの世界には、彼ら以上に実態のつかみにくい伝説的な人物も存在する。ブライアン・イーノはその一人だが彼のレコードは一度もヒットしたことがないし、服装は地味で髪は薄く、インタヴユーを受けることはめったにない。コンサートは全くせず、ときおりアルバムがリリースされる場合でも大々的な宣伝活動は行なわない。だがそれにもかかわらず、彼は70年代のポツプ界から現れた最も影響力のある人物なのである。
 ブライアン・イーノの名前はロキシー・ミュージック初期の実験的な要素の強いアルバムにクレジットされているし、デヴィッド・ボウイーの音楽の方向性が70年代中期に化した時にかなり大きな影響を与えたのも彼だった。また、トーキング・ヘッズの全盛期を創り出したのもイーノである。
 いろいろなミュージシャンに与えた影響についてたずねると、イーノは静かに徴笑んでみせる。

 

  「うーん、そういったことを考えたことは、本当にないんですよ。僕は現在活躍しているミュージシャンに影響を与えてきた人間なんだぞ、って思う時はある。でもね、やっぱりそうじゃないんだな。(イーノの音と彼らの音が似ていたとしても)きっと音楽を作る時に、彼らは僕と同じようなことを考えていたんでしょう。」

 

キングズ・ロードにあるEGレコードのオフィスのなかで、イーノは巨大なディレクターズ・チュアに座ってくつろいでいる。身につけで、いるのは暗い色のシャツと明るい色のスラックス。ヴェネチア風のブラインドから差しこむ太陽の光が、彼の顔を半分だけ照らしている。そして彼は、最近気に入っているという鉱物百科事典のべ-ジを話の合い間になにげなくめくっていた。
 ポップ・スターのイメージからあまりにもかけ離れた現在の姿からは想像もつかないかもしれないが、彼がいつもこのように静かで落着いた人物であったわけではない。73年にロキシーのキーボード奏者として『トップ・オブ・ザ・ポップス』に出演した頃のイーノは、.ポップの世界の人気者だったのだ。クジャクの羽根を使ったふんわりとしたジャケットに身をつつみ、眼には濃くマスカラをつけている。そして派手な色に染めた髪に小粋なベレー帽をちょこんとのせた彼の姿は、シンガーのブライアン・フェリー以上に人々の注目を集めていた。当時の人気の様子について、イーノは次のように説明してくれた。

 

 「みんな、僕があのグループのリーダーだと思いたがっていたらしい。だからブライアンは落ちこんでいましたよ。」

 

 だがエゴの衝突の結果、イーノはロキシー・ミュージックを辞めて」まう。このグループが世界的なスーパースターになったのはイーノの脱退以後のことだったが、彼は自分のしたことを全く後悔していない。

 

 「だいたいロック・ミュージックから遠ざかったのも、ロックには深みが全然なくて昔からあるようなアイデアを何度も何度も再利用しているような感じがしたからなんです。僕はね、いろいろなレヴェルから鑑賞することのできる音楽を創造したかった−−−もっとも成功したとはまだ言えませんが。」

 

 初期のソロ・アルバムにはロック・ミュージック風の曲も収録されていたが、75年に彼はオブスキュア・レーベルを設立して無名のアヴァンギャルド・コンポーザーのアルバムの発売を手がけるようになる。このレーベルからレコードを出した人の多くは有名になったが、その代表的な例はマイケル・ナイマンだろう。ナイマソは『ドラフツマンズ・コントラクト』というフィルムのために曲を書いて非常に高い評価を受けた。
 イーノの音楽性がはっきりとした形で提示されたのは、オブスキュアの初期にリリースされた『ディスクリート・ミュージック』の時だった。『ディスクリート・ミュージック』は静かで単調な旋律が30分間にわたって繰り返されるエレクトロニック・ミュージックだったが、この頃から彼はコマーシャルな要素を持たない音楽(アンビェント・ミュージック、環境音楽)を追求し始めた。
  イーノのアンビェント・ミュージックなど聴いたことがないと思っている読者がいるかもしれないが、おそらくその考えは間違っている。彼の音楽は歴史ドキュメンタリーからドラマに至るまでの、ありとあらゆる種類の映画やテレビ番組の効果音として用いられているのだ。しかも最新作の『アポロ』(EGレコード)はNASAから依頼されて作った作品であり、人類を初めて月に送り込んだアポロ計画開始10周年を記念して制作された映画のための音楽となっている。
 ポップの世界にはトップ20向きの曲を意識的に作る人が多いのだが、イーノは別の道を選んだのだ。

 

 「僕自身が求めている音楽だけを作っていこうと決心したんです。僕のエネルギーはそのために費やされているといっていいでしょうね。」

 

 彼が始めた音楽には斬新な手法が用いられた。レコーディングの際には自然のノイズをそのままの形で使うこともあったし、機械処理によってスピードを変えたノイズを用いることもあった。また彼は一定のパターンのノイズを繰り返し演奏するためにテープをループ状にしてみたり、エキゾチックな楽器とエスニックなリズムの新しい結合のしかたを探ることも試みている。
 イーノの音楽は無限の可能性を秘めたものだが、彼の作品はつねにごく普通のリスナーの耳に届くところにある。曲を仕上げるたびに、彼はテレビや映画のプロデューサーにテープを送って聴いてもらうことにしているのだ。大部分のミュジシャンはレコードを売ることで生計をたてているのだが、イーノの場合は世界中のテレビや映画による収入もあるというわけである。
  1976年になるとイーノの実験的なアイデアはデヴィッド・ボウイーの眼にとまり、ボウイーは彼をベルリンに招いて3枚のアルバム(『ロウ』、『ヒーローズ』、『ロジャー』)を制作した。これらのアルバムにはイーノの色彩の方が強く感じられる箇所がかなりあるが、当時のボウイーはイーノについてこう語っている。

 

 「ブライアンは音楽に目的を与えたがっているんだ。音楽を単なる娯楽の手段としてではなく、それ以上の何かを持った存在にしたがっているのさ」

 

 イーノの試みが最も成功したのが『ミュージック・フォー・エアポート』という作品である。これはニューヨークのラ・ガーディア空港のために作られたアンビエント・ミュージックで、同様の目的で彼自身が制作したヴィデオと共に高く評価されている。

 

 「空港のなかを歩き回っていると、どういうわけか疲れていらいらしてくるんですよ。だから、空港のなかに落着きと静けさをもたらす音楽とヴィデオを作ってみたかった。我々は他人と一緒に過ごすためにあまりにも多くの時間をさいているわけですが、僕の場合はいつも甘美な静けさを探しているような気がする。孤独な感覚を求めている、とでも言ったらいいのかな」

 

 彼のこの発言は、イーノの音楽が創り出すものをうまく表現したものだといっていいだろう。ぼんやりとした風景のなかにたたずむ孤独な人物と心の静けさ。私生活においても、彼は他人から離れて過ごすことが多いという。

 

 「僕にとっての素晴しい思い出というのは、たいてい散歩に結びついているんです」

 

  こういいながらタバコに火をつけた彼は、少年時代の出来事に思いをはせた。

 

 「サフォークのウッドブリッジというところで育ったんですが、近くの川岸には高さが15フィートぐらいの曲がりくねった土手がありましてね。散歩をするにはちょうど良い場所だった。ある晩そこを歩いていたら水辺から霧がふわーっと上がってきて、自分の足元が全然見えなくなってしまったわけです。あの時は空も、本当に不思議な色をしていたなあ。実際には土手の上のくねくねとした道を歩いていたんだけれど、なんだか雲の上を歩いているような感じがして−−-素晴しかった。」

 

 彼は3軒の家を所有していて、そのうちの一つには両親が、そしてロンドンとニューヨークの家には友達が住んでいるのだという。イーノ自身は現在パリのソルボンヌ広場のすぐ近くで暮しているのだが、パリの街を心の底から気にいっているわけではなさそうだ。

 

 「自分の家と呼べる場所は本当にないんですよ、欲しいんですけどね。どこにいてもホテルに泊っているような気分になっちゃって。」

 

 イーノには放浪者のようなところがある。ここ数年のあいだの彼はカナダやニューヨーク、ガーナやマレー半島に滞在して、いろいろな未知のものと出会っていた。彼はそのような経験から得たアイデアをメモや図というかたちでノートに書きとめておき、曲作りに役立てているのである。

 

 「マレーシアのプーラウ・ランカウィという町に行った時のことを話しましょうか。僕はゴム園のなかを歩きながら、どうしてゴムの木はこんなに不規則なかたちで、乱雑に植えられているんだろうって考えていたんです。でもね、その時パッとひらめいた。よくまわりを見回してみたらわかったんです。実際にはきちんと列をつくるようにまっすぐに植えられているんだけど、違う角度から見ると乱雑に生えているような感じがするんだってことに気がついて最近の僕の音楽は、こういった経験をもとにして作られているんですよ。」

 

 ロキシー時代の彼は、デカダンな生活をしているということで知られていた。ドラッグを乱用しているという噂は有名だったし、6人の女性と36時間もかけてセックスをしたという非常に強烈な伝説も残っている。その後イーノの名前はジュディー・クリスティーという女性と結びつけられるようになったのだが、2人の関係はもともと気ままな恋愛ゲームの一つとして出発したものであるにもかかわらず、いまだに続いているようである。そして現在では、時々喫うタバコと紅茶だけが彼のドラッグとなっているのだ。(ブライアノ・イーノは一般的な基準からすれぼあまりハンサムとはいえないのだが、やはりセクシーな男性だ。EGレコードにつとめるある女性などは、「あの人の瞳の輝きが素敵たの。それがなんともいえない点なわけ」、とため息まじりに話していた)
 彼のライフスタイルと音楽が大きく変化してしまったのは、1974年に肺を病んだことと1975年に交通事故に遇ったことが原因だろう。これらの出来事のおかげで孤独な生活をしいられた彼は、世界に対する認識を新たにしていったのだ。
 インタヴユーを行たったのは、彼がノースアンバランドで週末をすごして戻ってきた直後のことだった。イーノは農場を経営している女性と2人でヒースの生いしげる荒地のうえに横たわり、一晩じゅう流れ星を眺めていたのだという。その女性が彼の新しいガールフレンドなのだろうか?彼は静かに笑って答えてくれた。

 

 「いいえ、恋愛ごっこはもうやめましたから。一夫一妻主義に魅かれるようになっているんですよ。だけど実際には結婚もしていないわけで(笑)。」

 

 ブライアン・イーノが発表しているのはアンビエント・ミュージックだけなのだが、実際にはロック色の強い曲も作っているのだという。

 

 「アンビエント・ミュージックと結婚しているもんだからなあ、僕は。でも音楽に関わるという行為は恋愛ゲームに似ているでしょう。だから1時間か2時間ぐらい、スタジオのなかで魅力的でグラマーな曲と戯れていることもありますよ」

 

 そしてイーノは数年前から、『オン・ザット・ゴールデン・デイ』という曲の作曲に取り組んでいる。

 

 「二人の男がある日の出来事を思い出しているといった内容の曲なんてす−−その日彼は、誰もいない湾のまんなかに浮かんだボートに乗っていた。でも風が止まってしまったせいでボートはちっとも動いてくれない。その時の彼は風が吹いてボートが動いてくれることを心の底から願っていたわけなんですが、今になって思えぼその日が彼の人生にとっての最良の時だったのです。しかし別の場所に動きたくていらいらしていたおかげで、彼は人生の最良の時を無駄にしてしまった。『オン・ザット・ゴールデン・デイ』はそんな歌なんです。」

 

 このボートに乗っていた男がブライアン・イーノだと考えるのは私だけなのだろうか?彼は知的で、孤独であることの持つ魅力に取りつかれたロマンチストだった。

 

 


rockin'on 1984.10    ( hataeno )