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interview 1983


 

36台のヴィデオ・モニターに映しだされた「旧くて新しい都市」ニューヨーク。画面が一日の緩やかな移リかわりを促え、魔天楼はその影の色を深めてゆく。磁気で描かれた女たちの肖像は、時おリ思い出したように顔の向きをかえるのだった。この夏、赤坂ラフォーレ・ミュージアムで開かれたブライアン・イーノのヴィデオ・インスタレーションは、私たちの前に既知であると同時に未知でもあるような不思議な時空を出現させてくれた。次の一文はイーノが来日記者会見(7月22日)及び講演(23・24日)で語った内容をもとに構成したものである。彼の音楽観=世界観を自ら語ってもらうことにしよう。

取材・構成:式場 隆成さん   翻訳:斉藤 弘美さん

 

 今日のように、音楽が多様な形態をとるようになったのは、ここわずか3,40年の間の変化といってよいでしょう。その形式においてはもちろんのこと、音楽が示すところの内容や、それに対する人々の接し方においても、多大な変化と無数のヴァリエーションが生みだされてきました。なかでもBGMの出現は、私たちの音楽を扱う新しい態度の一つとして、真に興味深い現象です。音楽的な質という点は別にして、それはそれなりに存在意義が認められますし、私がアンビエント・ミュージックと呼んでいるものともある意味では共有する何かを持っています。

 しかし、こうした内容や形式、あり方の多様化に反して、人々の多くは、音楽全般について、あまりに漠然とした区別しかつけていません。たとえば、現代音楽とクラシツク音楽とは、よく同じ畑の仕事と孝えられがちですが、実際それらが示そうとしているのは、全く別々なものなのですこれは、報道写真とレンブラントの絵画とを、「耳」でなくて「目」で見るから、という理由で一緒くたにするようなものです。私たちは、さまざまな音楽に「耳で聴く」という単一のレッテルを貼って、それで済ますわけにはいきませんし、さらにいえば、「耳」だけが音楽を聴く器官ではないのです。

 後期印象派以後の近代美術家たちの中でとりわけ徹底した理論化として知られたセザンヌという画家がおりますが、彼がこんなことを言っています。「絵画には眼と頭脳の両方が必要である。眼は自然に対するヴィジョンによって、頭脳は表現手段の基礎となる組織された感覚の論理によって双方の器官が相互に助けあい、ともに発展するように、画家は努めなければならない」−−−同じことが、音楽についてもいえないでしょうか。人間には、感覚の膨大なインプットとして音をうけとる耳と、それを整理して、音楽の秩序を感じとる器官としての脳がある。そのため、音楽には二通りの聴こえ方があって、一つは、音が何らかの意味として想起される場合と、もう一つは、音楽として感じられる場合です。たとえば、私にとって英語の歌を聴くのは意味にかかる割合が大きくなり、日本語の歌を聴くのは音楽にかかる割合が大きくなる、といった具合です。このことは、聴く側の体験というものが、音楽の成立といかに深く関わっているかを示す一例にすぎません。音楽と.して起こる部分と、それを体験する部分との違いは、これからもっと明確にされて行かねばならないでしょう。

 

 私は日常の音に対して、そう神経質な方ではありません、聴いていて興昧を覚えたり、不快になったりしたときは、どうしてそんな感情が湧いてくるのか知りたくなって、注意して聴いてみることもあります。そんな中で私が最も注意を惹かれるのは何かというと、それは、聴こえてくる音と、その音を出しているものとの間の距離感なのです。現在私は、ニューヨークでアパートメントの最上階に住んでいますが、そこでは都市の音がとてもソフトで、かつエキサイティングに聴こえる。実際に下の道を歩いているときは、とてつもない雑音や騒音のかたまりでしかないものが、どうしてこんなに心安らかな響きに変わるのだろうか。そんな驚きとよろこびが、最近の私の仕事に、いろいろな面での影響と示唆とを与えてくれているように思います。

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 今回のインスタレーションのために準備したヴィデオ作品の大部分は、ここ5年間にわたって、私がソーホーにある自分のスタジオから、窓の外のニューヨークを撮ったものです。ヴィデオ・モニターの画面が、すべて縦につかわれているのは、一つには古い都市のかっちりとした構造と、雄大な空との対比をとらえたい、というモチーフを活かすためですが、もう一つの理由として、技術的な問題が関係しています。私の使っているヴィデオ装置は、どちらかというと旧式の安物ですから、画面にどうしても、ある種の歪みが生じる。ところが画面を縦にすると、スキャン・ライナーも当然縦に流れるので、歪みが、弱くなって自然に見える。この自然な歪みが、私の作品の構造に重要な役割を果たしているのです。水平方向に対しては、歪みとしか見えないものが、垂直方向には有効に働くということは、ニューヨークの地上レベルと高層レベルとの変化を物語る、不思議なメタフアーといえましょう。

 新しいメディアとしてのヴィデオの優れた点は、一つにはフィルムと比べて、収録時間が飛躍的に長いということです。おかげで私は、高層からの都市の眺めが、一日のうちでゆっくりとうつろいゆく様を、遂一とらえることができる。これらの作品には、人を驚かせたり、支配したりするような急激な変化は、一切ありまんから、観る側の人にとっても、また私自身にとっても、真に自分自身の体験となるような場を提供します。一般的な意味でのストーリー性には欠けますが、それは必ずしも必要なものではないはずです。15年前、アポロ計画の宇宙飛行士たちによって、人類初の月着陸がなされたとき、TVは、視聴者をあきさせないため、その大部分を削除して報道しました。そんな演出が効をなして、月着陸は、大そう劇的な場面に仕上がったわけですが、それが観るものにとってリアルな体験であったといえるでしょうか。報道する側も、それを受けとる側も自らを欺いているだけにすぎません。

 このような「欺かれた」関係は、作曲家と音楽、音楽とそれを受けとる側のあいだにも等しく存在しています。たとえば、ときどき私の音楽について、エモーショナルなものがまるで感じられないという批判をうけることがある。そういう人たちは、作曲家が、自分の音楽にできるだけ多くのフィ一リングや情緒的なものを取り入れるべきだと考えているわけですが、私はそうは思いません。なぜなら、私にとって音楽とは、個人的なパーソナリティとは無縁の存在だからです。感情や、それにまつわる奥深い体験というのは、あくまで聴く側の体験として起こるのであって、私はそうした体験をできるかぎり純粋で誠実なものにしておきたいと考えています。そのためには、作曲家が、誰かに歌いかけたり、主張したり、聴く者にとって支配的になったりするような状態は好ましくありません。音楽によって、個人的なレベルのコミュニケーションが起こるというのは、人々の想像にすぎないのです。そこでは、一種の共犯関係−−−作曲家は聴く側の立場から音楽を利用し、聴く側は作曲家の立場から利用するという不合理な了解−−−が暗黙のうちに結ばれているのです。

 

 では純粋な体験としての音楽とはどういうものでしょうか。私は過去何枚かのレコードを通じてそれを試みてきました。そのやり方は、音楽の構造の中に、互いに矛盾する要素、見込みはあるが不確定な要素といったものをあらかじめ仕掛けておくのです。もう少し詳しく説明すると、私の場合、極度に単純化されたいくつもの音のユニットを用いて作品を構成しています。それら音のユニットは、自由に解体ができ、しかも必要に応じて再結合するようつくられているので、私はすべての要素が作用する過程を、作曲家自身も予想しえない出来事として、体験することができるのです。ただし、こうした音楽的方法の成否は、一つにその構成要素の選択にかかっているといえます。同じ音楽の枠組みの中で、ある特定の音符グループが、他の音符グループにとってはナンセンスな状態をひき起こす可能性もあるのですから。試みにハービー・ハンコックがやっているようなジヤズの曲を相定してみましょう。彼の好んでとりあげるタイプの曲においては、特定の音符グループが、特定の時間内に、一つのポイントの周囲に集中します。そして、そのポイント時間内に、あまりに多くの組織された出来事が、あまりに明確におこるため、他の音符グループでは急速な分解がはじまって、二度と作用しなくなってしまうのです。このように、曲の構成要素は、どんな些細なものでも、独立して作用し、なおかつ互いに分裂をひき起こさせないよう厳選する必要がある。それは、精神的な修練(ディシプリン)さえともなうような、実に厳しくて困難な作業なのです。

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 ところでロバート・フリップのアルバムのタイトルに『ディシプリン』というのがありますが、彼の場合のそれは、身体的なニュアンスが非常に強く強く感じられます。彼の扱おうとする昔楽的構造は、きわめて操作するのが難しい状況にあり、彼はそれを障害物競走のコースかなにかのようにくぐり抜けることを、自らに課したがっています。フリップはいってみれば、音楽の厳格な建築家であり彼にとって作品の精密な図面は、音楽が存在する以前から出来あがっているのです。けれどもわたしの場合、音楽をもっと自由にデザインしたい。音楽的構造やその構成要素について、必要以上に厳密にきめたりしないで、それらが音楽として作用するとき、どんなふうに結合するか、音のクラスターがメロディの上をどんなふうに通過していくのか自ら発見して楽しみたいのです。

 フリップの組みたてようとしているのは、実現することの大変むずかしい構造です。なぜなら、その構造の中では、一切の誤ちの要素が許されていないからです。そのため、彼は、超人的なディシプリンを自らに課さねばなりません。フリップの音楽と私のそれとは、結果的に似たものになることがあるので、私たちはお互いによく引き合いに出されますが、実は全く正反対といってもいいでしょう。私が構造と称んでいるのは、いわば世界についての不完全なモデルのことです。私はそれに身を委ね、省察し、その枠組みの中で行動する。そして誤ちを犯します。けれども、それは偽りの世界でのことだから、もし誤ちを修正できないほどの歪みが生じれば、私はあっさりとその世界を「あけわたし」すればよい。そして新しい偽りの世界を設定し、新しい自分の役割と行動を選択すればよいのです。このとき、私は誰かの支配をうけようとする欲求から解き放たれた孤独者であり、偽りの世界の中の開かれた存在なのです。

 

 開かれた存在者は、世界に対して多くのアドヴァンテージを得ます。彼は誰からの支配もうけないだけでなく、自身の行動原理(プリンシプル)に悩む必要もありません。キリスト教の倫理によれば、人は真実を得るために苦痛の代償を支払うことになっている。しかし、彼は「偽りの世界」のどのような真実によっても傷つかない権利を持っています。なぜなら、彼は自分を他のものへ向けて解放する術を知っているからです。

 このように、人は何かを強制したり、支配されたりするのをやめたとき、はじめて本当の表現ができるようになる。それが「あけわたしのコントロール」という技術なのです。私はこの技術を、自分の作品の随所に導入・ています。たとえば、今回のヴイデオ・インスタレーションで、私は36台のヴィデオ・モニターと、やはり40ちかいマルチ・トラックのテープを会場に設置しましたが、そのすべてのトラックが、独自のプレイ時間と、リセット(巻き戻し)の間隔を持っているため、音と映像との組み合わせは、気の遠くなるようヴァリエーションを生じる。むろん、私自身も、そのすべての組み合わせを予測しているわけではないので、あらかじめ予想した要素と、予想されなかった要素が、突然、ある流れに従って結合するのを、観客の一人として体験することができるのです。

 私の作曲法そのものは、別に新しいものではありませんし私が考えだしたものでもありません。それは、15年ほど前から、ジョン・ケージを始めとする何人かの偉大な作曲家たちによって試みられてきました。とくにケージは、その音楽に対する真らつな態度によって私に多くの影響を与えました。彼は、音楽を、音符やらレガートやらといった言葉のタイプで語ることをやめようとした数少ない一人です。音楽について語るのは、人生の主要な興味について語るのと同じで、決してエンターティメントではない。それは行動にコミュニケートすべきものなのです。しかし現在では、こういった論議が、人と人の音楽との間の個人的なものにすりかわってしまったように思う。私は、私自身の構造体、私自身の「偽りの世界」のために、それを憂える一人なのです。

 

 


Fool'sMate 31 1983.10