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interview 1982−2/3/4

 


 

 

ENO:夢といえばね、タイでの6ヵ月も、まさに夢のようなものだった。

 

6ヵ月もいて何をしてたんですか。



ENO:英国枢密院の図書館に通って、そこでほとんどの時間を過ごしていたんだ。なにしろ、タイで唯一の冷房付きの涼しい場所だからね(笑)。ともかく、私には暑すぎる土地だ。そうでもするより仕方なかった。で、本を読んだりしてしばらく過ごしてからは、北部にある小さな村に少しだけ暮らしてみた。そこでも、ほと
んどの時間、本を読んでいるか、思うことを書いたりしていただけだった。


その聞に、民族音楽を収録したりはしなかったんですか。絶好の機会だと思うんだけど。



ENO:いや、旅行するときに、私は機械を持ち歩かないんだ。アフリカに行ったときだけ、例外的に持っていったが、ふだんは一切持っていかない。いや、不思議がらんでくれよ。カメラやテープレコーダーを持っていくと、いつどこで何を見ても、それをカメラに納めたり、テープにとったりしたくなるものだ。その結果どうなるかといえばそこで本当に起きていることを見失ってしまうんだ。その事象を見る目がどうしても限定されてしまう。ところが機械がなければ、目の前で起きていることを、目や耳だけじゃなく、ま、気分で書えば、からだ中の細胞ひとつひとつでエンジョイできるように思うんだよ。

 

ふむ。それでそこで得たすべてのイマジネーションがやがてスタジオの中で音として再生されてくると……

 

ENO:まさしくそうだね。こういう記憶の仕方の方がマイクやテレコにたよる方法よりずっといい。というのも、機械というものは、我々が見たいと思ったリアリティーを記憶するだけで、そこで実際に“何が起きた"かは記憶できないからだ。それに対し、我々の記憶というのはとても巧妙で、それは精密なカメラやレコーダーと同じか、それ以上の機能を持っている。ところが、カメラを使った場合には、ひとつの絵に固定されてしまって、自分の記憶が破壊されてしまう危険性すら
はらんでいるんだ。カメラがない場合、我々の瞳に映る絵はどんどん変化していくし、ビデオですら歯がたたない点は、それ新鮮で、豊かな、さらに別のイメージにどんどんとってかわられていくということだ。そのすべての様子を、我々は目をつむるというしごく単純なスイッチで見ることができるというわけだ。過去か現在となり、現在が未来になったりする。−−−一たとえば、タイである場所に滞在したときに、それは実にほんのちょっとした瞬間だったんだが、バイクに乗って1本道を走っていたんだ。すると、突然目の前にかなり大きな白い雲のようなものが見えてきた。それがいったいなんなのかは、じっと目を凝らしてもとっさにわからなかったが、もっと近づいてよく見てみると、なんと、それはおそらく数百万匹もの白い蝶の大群だっ.たんだ。巨大な白い蝶の群が白い雲を作っていたのさ。もし、そのとき、カメラを持っていたら、きっとすぐバイクを降りて、相当にあわててシャッターを押しまくっただろうね。しかし、カメラをセットしなくて肉眼で見続けたおかげで、その夢のようなイメージは強烈に私の目に焼きついて、いまでも目をつむれば、視界一面に白い蝶が舞い始めて、しだいに遠くに去っていき、しまいにはひとつの点になって、消える。さらに、なにしろそれがとても強い興味を起こさせるイメージだったので、私はそこからまるで別のイメージをいくつも見ることができた。ま、カメラと肉限と、どちらが真実かはよくわからないが、カメラの嘘より、頭脳の方がずっと面白い嘘をつくと、私は思う……。カメラという科学技術の産物だって、けっこう嘘つきだからな。

言われてみれば、なるほどと思うけれど、見るもの聴くものが、すべてそういう具含に…



ENO:私の揚合、記臆はさまさまなレベルでインプットされて、ある一定の時間、う一ん、3年とか15年とかたって、突然というかんじで、その瞬間がよみがえるようだ。もちろん、カメラに関して、いま私が話したことは、すべての人にあてはまることではないだろうと、思うよ。しかし少なくとも私にとっては、そういうことなのだ。ツーリストはバスから降りて、周りのものすべてにシャッターを切る。あれは、自分が“どこ”にいるのかわからず、すべてをカメラに納めて、家に帰ってからじっくりと理解しようとしているように思えるんだ。とてもシンプルなフォームにより、自分の経験を理解するということ−−−これが私がカメラを手にする際の目的であるのかもしれない・・。要するに記憶が個定されてしまうよりも、私はそれが生き生きと変化していくのを好むね。

まるで、あなたの目の色のようだ(笑)。

ENO:ハハハ……、私はどちらかというと夢遊病考的なのだろう。夢の中をさまよっているというと、歯が浮くが。しかし、実際に私のこれまでの人生は、ほとんど夢のようなものだと思っている。夢から突然目が覚めたときに、現実との区別がつかなくなって、どちらの出来事が先で、どちらが後かさえ判別がつかなくなることは日常茶飯なんだ。出来事の連続性があやふやになるわけだ。その色は何色だったか、果たして色があったのかどうかもしまいにはわからなくなって、すべて心の中で漂っているようなかんじになる。
 それで、これはよくある話かもしれないが、私は自分が子どもの頃のことを。ほとんど何も覚えていない7〜10歳くらいまで、自分は何をやっていたのか、ほとんど忘れてしまっているんだ。まるで、夢のごとしだ。ところが、ある特定の日に、特定の場所にいて、特定の音楽を聴いているというような、実に細かな情景をはっきり思い出すことがある。それで、私は、記憶とはあえて記憶しようと意識的にならなくても、突然、出現するものだと考えている。ある日、あるとき、世界のどこかに自分の記憶が立ち現れるといった具合だね。つまり、こういったN.Yの気候は、おそらく大変たくさんの思い出(記憶)を私に与えてくれているはずで、この気候にまつわるたくさんの記憶が、私の知らぬうちに私の脳に刻みこまれているというわけだ。

うん、ところで、この部屋は余りにもシンプルで、ほとんど何もないというかんじだけど……

 

ENO:私は、……いつも、空っぽの部屋に住んできたんだよ。生きている間にからだにこびりついてくるものを、私はできる限り捨てるよう、心がけている。どんどんためこんでいくタイプの人間じゃ、私はない。たとえは新しいレコードを買うと、古いもの'は、何らかの形で処分してしまうので私のコレクションの量は、いつもだいたい変わらない。それと……、自分の周りに何かを構築するというようなことがあまり好きじゃないのだ。前にも言ったと思うが、何でもたくさんありすぎるというのがニガ手でね、それは仕事場でも家でも同じなんだ。自分か理解することのできるものだけをある程度選択して、身の周りに置いておくのが好きだ。レコードにしてもしかりで、あまりたくさんのレコードを聴きたくないね。だから何万枚ものレコード・ライブラリーを持ちたいとは夢々思わん。いうなれば、私は5枚のレコード・ライブラリーで十分にハッピーになれるということだ。



−−−この部屋を見ていると、それはレコードばかりじゃなさそうだけど。



ENO:そうね、本や画集といったものもあまりたくさん持っていない。
うん、難しいのは、私はチョイスしない方が、何でも最高に楽しめるということ、たとえば、長い散歩に出たとき、ものすごく楽しめるし、気分も最高になる。5〜10マイルの長い散歩にいったん出ると、どうあがいても帰ってこなければならないだろう。こういった選択のない状態が非常に楽しいんだ。だからといって、散歩を“娯楽”とか“憩”のためにやっているんじゃなくて、
「まったく、なんてこった!こんなに長い道のりを引き返さなきゃならないなんて!」と思いながら、実は散歩しているんだけどね……。それで、同じような話だが、マレーシアにしばらく住んでいたときに、英語で書かれたある本を見つけた。そのとき、私は、とてもストレンジな場所にいて、その本も、普通だったら、まあ絶対に読まない種類の本だった。もしそれが図書館に100冊並んでいたとしても、決して興昧をそそられることはないという、そういう本だった。で、ともかく読破したんだが、、その感想はといえばだ、いままで読んだ本の中でも、とにかく一番面白いといえる部類に入るものだったんだよ。要するに、私の抱えている問題というのは、あまりにもチョイスがたくさんありすぎた場合、自分で選んだひとつの選択の中に正しく落ち着いて入っていけなくなるという点だろう。気が散って、本ひとつにしても、ある程度まで読むとアレも面白そうだ、コレもなかなか……というあんばいになってくる。マレーシアでの経験のようなわけにはいかなくなるのだ。だから、私は、自分の人生でも、選択を制限しなければならなくなってくる。



なるほど、ライフスタイルの形としては悪くはないね。だいたい余計な金がかからないですみそうだ(笑)。ところで、そのレコード・ライブラリ一ですが、目下、どんな顔ぶれになっているの。



ENO:ゴスペル・レコードを最近よく聴いているんだ。で、近頃よくやることなんだが、レコードを買ってその中に気に入った曲があると、それをカセット・テープに入れて保存するんだ。だから、どちらかというとカセット・コレクションと言った方がいいかもしれないね。レコードよりカセットを聴くことの方が多い。う〜ん、たとえば、私は弦楽四重奏のスローな演奏がともかくすべて大好きで、ほかのムーブメントが嫌いなんだ。だから、弦楽四重奏のスローなものばかりを集めたカセットや、モーツァルトのコンチェルトのスローなものだけのやつとか、べ一トーベンのスローものとかといった具合に、カセットを作る。ゴスペルもテープにしてコレクションしているよ。



なせゴスペル……。



ENO:悲しい歌なら、ほとんど全部好きで、ゴスペルのテープもそのうちのひとつというわけだよ。悲しい歌ばかりを集めたテープは何本かある。それから、自分の家でダンスをするのが好きで、ダンス曲ばかり入れたテープとか、そうだね……アラビアのレコードのコレクションはとりわけ多い方かな。アラビアの音楽も最近、とくによく聴くもののひとつだ。ここ2、3ヵ月のことをいえば、そうね、ゴスペルにダンス・ミュージック、それにアラビア音楽……といったところかな。



お気に入リの画集、写真集が、アレですか。



ENO:そうそう。フォービズムに関する美術書や、好きな画家であるカンディンスキーの画集、それにアンリ・カルティエ・ブレッソンの写真集…、それから、アエムカジーの著作になる「ヨガ・アート」という大変にビューティフルな本があるね。ほかにといっても、あとはペルシャのミニチュア本とか、アトラスの世界地図……といっ
たところかね、写真や絵の入った本というのは。



カンディンスキーは、うん、絶対あなた好みの画家だと思っていましたよ。彼は絵のほかにも並行してすごくいい文章を書いていますが、彼の書いたものや考え方にも興味はありますか?



ENO:もちろんとても好きだ。.「芸術における精神」に関する著作は、20年以上も大事に持っているし、何度も読み返して、彼にはかなりの影響をうけているな。絵にしても、何度見ても飽きないし、彼は最も好きな画家だ。11歳のときに初めて見たときは、すごいショックで、それ以来ずっと惚れっぱなしというわけだ。しかし、実はね、カンディンスキーは2番目に好きな画家なんだ。



ふむ、するとナンバー・ワンは……。



ENO:一番好きなのは、モンドリアン。



ああ、なるほど(笑)。



ENO:それからマティスの最後の絵が入っている画集も気に入って大事にしている。



それでですが、かリにあなたをアーチストと呼ぶことは、正解ですか?



ENO:私を“アーチスト”と呼ぶのは勝手だが、私自身は、発明家だと思っている(笑)。
アート以外に、例えばマシーンにも並々ならぬ興味があるしね。とにかく、ライトやモーターを使って小さなマシーンを組み立てるのが好きなんだ。それから料理もする(笑)。香水も作るし、文章も書く。小説やフィクションものは書かないけど、絵画や音楽については、よく書くね。



そういういろいろなものを統合していく自分の感覚というのが、環境芸術としてトータルな終着点をみることが、あなたの目標なんですか?

ENO:料理をその中に統合するのはかなりむずかしいね(笑)。ところで、自分が統合していこうとするアイデアを、先に限定してかかるのは、非常に危険なことだと思う。それよりも、まずともかく仕事を始めて、それが結果的に統合されるという形の方が、ベターだ。そして、もしひとつに統合されなくても心配する必要はどこにもない。バラバラのままにしておけばいい。重要なことはモノとモノとの間にいつわりの関係を強要しないことだ。例えば、この2、3年、私は2つの別々の種類のレコードを作ってきたけど、この2つをあえてひとつにまとめることはできないと思うし、また無理をしてそれをやりたくないんだよ。この2つの音楽は、別々の違った種類の音楽で、私はそのまま別々のものとして評価しているんだ。
 で、私は照明の機械を、17年間もかけていじくリまわしているんだが、最近になって多くの点でそれがまるで音楽とそっくりであることに気がついてね。同じ部類に属しているために、ひとつにすることに無理はまったくない。そんなあんばいで、ふだん私は、すべてを統合することを目的としてアイデアを組み立てることは一切しない。


料理は別だと言いますが、食べることもひとつの思想だという観点に立つとしたら、何かありそうだけど。料理は自分でするんですか?


ENO:ちょっと変わった料理はする(笑)。N・Yで私が往んでいる場所というのは、こっちにチャイナタウンがあって、ここにリトルイタリアがある、ちょうど中間地帯なので、食料品はこの2つの地区で買うことになる。上の方に少しあがると韓国食料品店があって、そこで野菜を買って、ほかのものをリトルイタリアと中華街で仕入れてから、各国をミックスしたような料理を作るんだ。で、ここでもまた、音楽やほかのアートに対するのと同じく、前にも言ったけど、あんまりたくさんのものから選択しなければならなくなると、私はメチャクチャに混乱してしまうんだ。私が最高の料理をするのは、1週間の終わりに、ものが何も残っていなくて、あるのは、砂糖とカレー・パウダー、オニオン、ミルクといった4品ぐらいのときでね、これらを使って最高の料理を作り出すのが、うまい(笑)。1週聞の始まりのときには食料品がたくさんありすぎて、あれやこれと、材料を使いすぎて失敗ばかりしているんだ。自分ではあまり料理がうまいとは思わないが、料理をするのは、とても好きだよ。


別にベジタリアンではないんでしょ?


ENO:ベジタリアンではないよ。でも、あまり肉料理は作らないね。どうも、私の作った料理を一度食べてもらいたいな。ジャンル分けがそもそもむずかしいことに気づいてくれると思うから(笑)。


週末にね(笑)ところで、ガーナにエディカンホというグループをプロデュースするために行ったときは、どうでしたか?西欧人がアフリカに行くと、まず食べ物で苦労すると、よく聞きますがね。


ENO:ああ、アフりカの食事はまったく気に入ってしまったよ。もちろんいままで食べた食べ物とはだいぶ違っていたけどね、何がエンジョイできたかって、そりゃ同じものを何度も何度も飽きもせず繰り返して食べれることさ。これには感動してしまった。ガーナにいたとき、我々が常に口にしていた2種類の料理があって、ひとつは「フーフー」といい、もうひとつは「ケンケイ」というんだが、なんのことはない、実はこの2つの料理は同じ材料からできていたんだ(笑)。とにかくとてもシンプルな食べ物で、しばらくなじんでみると、こういったシンプルな食べ物は、本当においしいという実感が、突如としてからだ中を走り回ったんだね。とくにお腹がすいているときなどは、「フーフー」のひとかけらに勝るものは考えられないというくらいに感激したものだ。


これからもアフリカ周辺でいろいろなグループと仕事をしていくつもリですか?


ENO:そうだね、アフリカ人の友達がいて、その後ずっと連絡をとりあっている。そういえば、今日、また彼からテープが届いていたな。彼はテープとともに、このグループの名前はなんで、どんなスタイルで演奏してて、どうのこうのと、さまざまなインフォメーションを送ってくれるんで、本当に、彼のおかげで私はアフリカで起きていることと接触を保ち続けられているんだ。そして私が非常に気に入った音を耳にしたときには、またアフリカに足を運ぶつもりだ。まったく……、アフリカに滞在できたことは、すばらしい体験だった。ガーナ人にしても、私がこれまで出会った中で最も優稚で上品で、礼儀正しく、インスピレーションの鋭い民族であることを身をもって感じた次第だ。


アフりカに限らず、マラヤやタイでもそうだけど、ああいった部族的なるものに対する興味というのは、どういったキッカケではぐくまれたものなんですか?



ENO:それはとてもうれしい質問だ。興味を持つきっかけとなったのは……

 

次回へ つづく