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interview 1981


 

ある日イーノのもとに国連からの使いの者か来た。彼が手にしていたのはガーナの文化省からイーノに宛てた招待状であった、ガーナの芸術祭に参加していただきたい、よろしけれしばらくこちらでゆっくりし、ガーナのミュージシャンとレコーディングなど……。彼はガーナヘ飛び、地元のグループのためにアルバムをプロデュースし、彼らと共にプレイし、レコーディングした。

 

アフリカ、それも特にガーナの音楽を大々的に西洋文化にむけて紹介できれば素晴らしいだろう、と考えたわけです。単に珍しいものとしてというつもりではなく、これは非常に刺激的な音楽なのだということを主張するひとつの方法としてですね。どういうわけかガーナの人々は私のその夢をかぎつけ、招待してみるのもいいんじゃないかと考えたわけですよ、アラブの音楽にも私は興味を持っているが、やや受け人れ難い点もある、あのあたりのメロディ感覚は我々のものとは非常に違ってるからということも多少あるかもしれないが。

昔から強く感じていたことだが、いわゆる“プリミティヴ”な、民族学的な種族の人々に何が起っているのか。彼らの音楽の複雑さは、彼らの杜会の豊かさのシンボルであるはずだ。だからこの音楽を聞いて人は、もしその文化がこれだけ複雑な、これだけ知的な音楽を産み出し得るのなら、その人々が“プリミティヴ”なんかであるはずがない、と考えるかもしれないと私は願ってるわけです。

パンクに対する感激を持ち続けようとしたが、アイデアという点ではそれほどたいしたことはなかった。で遂に私は悟ったのだ、えいクソ!面白い音楽はよそにいくらでもあるじゃないか。こんなちっぽけなシーンにこだわってることはない。もしパンクがすたるとしたらどうだろう?南アフリカではもっと面白くて、価値のあることが起きている。

むこうの人々の親切なのには感激しました、それとダンスてすね、年をとった人達でも踊るんですよ、、しかし一番スリリングなことは実は極めてつまらなくみえるんですね。夕方になると外にすわって、小さなソニーのステレオ・レコーダーとヘッドフォンを持って、どんなことが起きてるのかジッと耳をすませていたんです。車もあまり通ってなかったので、普通だったらかき消されてしまうような音まで聞くことができました。虫の音、遠くの話声、夜の鳥、いろんなカエルの鳴き声、それにいろんな方角から聞こえてくるあらゆる種類の太鼓の音、はるか遠くの方から風にのってきれぎれに響いてくるんです。つまり私は環境に耳を澄ましながら何時間も過したんです。私にとってアフリカ行きのスリルはそれだったんですよ。そのテープはどんな写真よりも、正確な記録です。

 

ガーナのミュージシャン達とのプロジェクトの一環としてそのテープを使ってみるとか?

 

多分ね、しかしなにせはっきりしないテープだし、ところどころかすかな音しかはいっていないから。しかし、ちょっと前にサンフランシスコで作ったようなビデオ・プロジェクトと連係させてそのテー-フを使うかもしれませんよ。人っ子一人いない巨大なオフィス・ビルを撮って、それに“サウンズ・オブ・ア・カメルーン・ヴィレッジ”という民俗的な記録レコードの音をかぶせたんです。そのコントラストは実に魅力的でした。人けのまるでない全体主義的なビル、そこにしゃべったり働いたりする人々の声、山羊やニワトリの鳴きがか聞こえてくるんですから。

 

その手法は「ブツシュ・オブ・ゴースト」にも用いられていましたが、そのテクニックのヒントはどこから得たんですか。

 

ああ、それは大事な点ですね。これが私達のオリジナル・アイデアだと思われたら困りますからね。2、3年前のホルガー・チューカイの「ムーヴィズ」というのに同じテクニックが使ってありましたが、彼も私もそのアイデアはストックハウゼンから得たんです。彼はそのテクニックを15年前に使っていました。「アイ・アム・ザ・ウォルラス」もそのオブジェ・ポーカルをうまく使ってましたね。私にとって最も決定的だったのは、ステイーヴ・ライヒです。彼は60年代中期に「カム・アウト」とそれから「イッツ・ゴナ・レイン」というレコードを作っていますが、それは全面的にオブジェ・ボイスを使って作られたものなんです。楽器はなしで、声だけ。これは非常に私にとって重要でした。オリジナリティは要求しませんが、ゆくゆくは他の人にもそういうオブジェ的な素材を使ってもらいたいものですね、今みたいにくだらない歌ばっかり作ってないで。

 

あなたはかつて、パーラメントとクラフトワークを合わせたようなのが自分の“夢のグループ”だとおっしゃいましたが。

 

理想のグループというのは常にふくらんでいきますからね。その質問に今答えるとしたら、その方程式にレディスミス・ブラック・マンパゾ(南アフリカのアカペラ・バンド)とアブオウ・アブデル・サイド(アラブのプレイヤー)と、もっと大きなリズム・セクションをつけ加えますね。最近私は、底を強いリズムが流れているその上を非常に複雑なポーカル、がおおっている、といった曲を書こうとしているんです。西アフリカのトーキング・ドラム・スタイルと南アフリカの重唱の伝統を併せたようなものですね。

 

最初にアフリカ音楽に興味を持ち始めたのはいつですか?

 

知ったのは1972年頃、フェラ・ランサムのレコードを通してですね。しかし自分の興味とアフリカ音楽をつなげる方法があるとは思いもしませんでした。というのも当時はロキシーをやめたばかりで、一人で仕事をするということに主として関心のあった時期でしたから。アフリカ音楽はまさに社会的な音楽ですし。そのうちに、気がつくと共同杜会の創造性というヴィジョンに私は引かれていたんです。実のところ、一人で仕事をするのにウンザリしてたんですね。私の求めているようなタイプの相互作用がどういう時に起こるかというと、何人かの人人の間にひとつの考えに対する或る誤った解釈がある時なんですね。例えば、6人か7人のミュージシャンがひとつの曲をやっていると、そのおのおののアプローチの仕方は、少しずつ角度が違うわけです。結果として、有益な意見の衝突が起きるわけですね。そこから興味深いある緊張が生まれるんです。

 

お話を聞いていると、それはジャズのインプロヴィゼイションに似てますね。

 

いや全然違いますよ。即興者は自由にやる、と同時にその間バンドの他のメンバーは一緒にその曲を維持してゆくというインブロヴィゼイションの考え方とは関係ありません。そういう自由についての考察が行き着いたところが、アバンギャルド・ジャズというわけですが、一般的に言ってあれは面白くもなんともないですね。もし人問からあらゆる制約を取り除いてしまうと、その人問は霊感を受けたように行動するだろうという仮定に対するいいクスリだ。そんなことありっこないんです。

要は、典型的なジャズ、或いはロックでもそうですが、それのインプロヴィゼイションのコンセプトは、個人が何かの束縛をのがれて逃げるというセオリーに基づいているわけです。アフリカ版は、個人が杜会的な出来事に対して、重要なかつタイムリーな貢献をするという考え方に基づいているのです。トーキング・ヘッズは、その種の交流の理想的な例です。そのスタイルは杜会リズム的な相関性を伴っています。

 

トーキング・ヘッズの「リメイン・イン・ライト」に於けるあなたの役割はどの程度のものですか?

 

レコーディングを始める前に、普通のイミでのプロデュースをするつもりはないとみんなに説明しました。実を言うと最初はブロデュースなどまったくやりたくなかったのです。共同制作的にやりたいということ、それと彼らの音楽に私が望んだ方向性をバンドのメンパーに話しました。トーキング・ヘッズが自分達のアイデアを何も持っていなかったとか、私が自分の考えを彼らに押しつけたとかいうふうに思われては困ります。あれはどのみち彼らが向った方向なのです、もっともそれほど明確に表しはしなかっただろうが。とにかく私達はみんな、音楽というのは切り開いていくアイデアと関係があるのだという確信を持っているのです。

いずれにせよ、何もやらなかった箇所もありますけど、あのレコードに関しては私がかなり支配的にやりました、プロデューサーそして共同制作者としての私のポリシーは常に次のようなものでした。つまり音楽的に必要なことはいつでも使えるようにしておくべきであり、そのままにしておくことが必要なら、そうしてやるということ。それはミュージシャンに私が期待していることでもあります。

 

しかしこれはバンドのメンバーの何人かも言ってることですが、あなたとバーンが自分達の目的のためにバンドをふリまわしているという見方もあるんですが。

 

byrne&eno.jpg (18840 バイト)そういう説を警戒したいですね。あのアルパムを終えたあと、私はロヤリティをどういうふうに分けるかを決めるミーティングを招集したんですよ。ふつうなら一曲の歌は詞とメロディとアレンジで成り立ってますから3分の1ずつに分けるんですが、あのアルバムではそういうわけにもいかないので、そのへんの要素を明確にしたリストを作るのもプロデューサーの役割なんです。

ひとつはまずメロディですね、それと詞。3番目の要素はプロジェクトのコンセプチュアルな指示です、つまり音楽的な選択は好みとか気まぐれに基づいているのではなく、さっき私が言ったようなアフリカ的な目標を実現するということに基づいているのです。4番目は誰が特定の音楽的なアイデアを考案したかということ。スタジオでみんなで演ってる時に、まあ非常にシンプルなアイデアを思いつくとします、ただどういう訳かそれに全員が触発される。最終的にはそのアイデアが生かされないケースもあるが、それがイカリの役目をしたのだから、そのアイデアも評価しなくてはならないのです。最後の要素は、誰が今回のシチュエイションを組み立てたかということです。トーキング・ヘッズの場合、明らかにそれはグループ全体です。私とデイヴイッドだけじゃない、メンバー全員が感情的にも概念的にもそれに感覚的にも、その当時そういう音楽に乗気だったし、積極的に取り組もうとしていたんです。その事実が恐らく最も重要なファクターでしょうね。

 

「ブッシュ・オブ・ザ・ゴースト」は「ミュージック・フォア・エアボート」のような最近のあなたの作品とはまた違ったスタイルのものですが、それにしてもロキシーであなたがやったことや初期のソロ・アルバムのようなアバンギャルド・ボップからの逸脱行為、180度の転換ですよね。なにか一見したところ全く首尾一貫しない音楽的形態の間で揺れ動いているようですが。

 

私がやろうとしたことは、新しいテリトリーを探ることだったと思うんです。オーディエンスにショックを与えて認識を新たにさせるアーティストを重視するという考えがロックに於いては盛んでしたよね、それが60年代のアバンギャルド・ムーヴメントを反映しているわけですが、そのアイデアは恐怖という方法論に基づいているのです、動物を虐殺するアーティスト、あのハーマン・二ーチェの作品のようにね、それじゃうまくいきっこない。アバンギャルド・アーティストの過激なパフォーマンスを見に行く人は誰でも暗黙のうちにすでにそのアーティストの前提を受け入れているのです。同様に、ショック療法というかその美学が攻撃性と暴力から来ているバンドから何が出てくるか、私達はみんなわかっているわけですよ、こうなるともう面白いとはいえませんね。実際、このような状況に於いては、唯一本当にショッキングなものはデリカシーと美です。

私が言ってるのは、つまり人生の現実は過酷なだけではないということです。美しい現実もある、それに没頭することは大罪でも何でもありませんよ。芸術の機能のひとつは、さらに望ましい現実の可能作を人に与えることです。それを現実逃避だと見る人もいるかもしれないが、実際そうなのかもしれませんね。多くの点に於いて、私は世界を論じることはできません。だから可能な限りのいろんな世界を学びたいんです。ある世界の中で自分が望むものは一体何なのかそれを見つける必要があるし、この世界をそっちの世界の方に動かすことができるのかどうか知りたいのです、そのひとつの方法が、音楽を通して、自分が求めている世界の幻影を創りあげることたんです。

 

それでもあなたは「ノー・ニユー・ヨーク」という極めてニヒリスティックなニユー・ウェーブ・バンドをいくつかフィーチャーしたアルバムのプロデュースもしましたし、パンク或いはポスト・パンク・ムーヴメントの影の仕掛人というふうに見られていますが。

 

そんなことありませんよ。たまたまかつて私が興味を持った音楽的価値を重視する人達のムーブメントたったというだけです。もっとも私より以前に、ベルベット・アンダーグラウンドのような、バンドがすでに同じアイデアに注目してましたけどね。パンク革命は私にとってそれほど…思いがけないことではありませんでした。

しかしながら、ひとつ私がニュー・ウェーブに影響を及ぽしたのは、この点についちゃ非常に満足してますけど、私は音楽はミュージシャンだけの専門ではないという概念を広めた一人だったんです。私が始めてレコードを作り始めた頃は、ロックといえば、はやくうまく楽器の弾けるヒロイックなプレーヤーばかりが強調されてました、その時私は思ったんです、今もそう思ってますけど、あんなものは音楽でも何でもないとね。当時私はノン・ミュージシャンでした、何にも弾けなかったんです。私が言いたかったことは、人は力強い芸術を作り出すために老練なリアリストである必要はないのだから、感動的な音楽を作るために熟練したインストゥルメンタリストである必要もない、ということです。それを音楽の絵画的スタイルと私は言うんですよ、ミュージシャンにとって楽器は絵筆、スタジオはカンバスですからね。

 

当面探ってみたいテリトリーはどんなんですか?

 

とにかくロックという分野にはもうウンザリしているんです。プレイするのは好きだし、作るのも面白いが、いったん作ってしまうと二度と聴く気になれないんですね。ガーナ以来、今やってることは、風景音楽というものです、想像上の風景ということですが。音楽の中に地質や地形、そしてその上にすえる風最を作り上げてみたいんです。それからその場所に生き物を配してみたいですね、そのうちの幾つかは結局人間かもしれません。

 


rockin'on 1981/12