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interview 1980.11

 


 

MEDIA information  No.3 1980.11
[ ブライアン・イーノの状況 ]

 

 

■ どうして芸術家になりたいと思った?


 絵を画くこと、そして歌うことが好きだった。とりわけ絵を描くことが好きだった。加えて、どんな機会にも即座に対応できるように自分を自由の身にしておくことが重要だという確信…。一般的な職についている人を観察して、これはますますはっきりとしてきたね、彼らは言ったものだ。“ああ疲れた、それは次の週末にするよ”って。そして結局そのままに終るわけ。いつまでも決して書かれることのない小説のようなものだ。
 私がしたことは、じっとしていて誰かが自分に何かするように求めてきたとき、いつでもそれに応じることだった。自分に課したひそかなルールは、見込みのなさそうな誘いにのること、というのはそれらがきまって私を興味ぶかい場に導いてくれたから。自分は若いし、自分のやることはなんでもいい訓練になるし、なにかを発見する道かもしれないと考えている。
 

■ 何のための訓練? そういった訓練は何を導くのかしら?
 

 でたとこ勝負といえるね、日和見主義者であることを自分に許すというのも、成功の一面なんだよ。ぶらっとチャンスを待って、モノにするわけだ。
 

■ 自分がなぜ成功を奴めてきたと思う?
 

 非常に答えにくい質問だね。幸運たったといいたいが、それだけというものでもない。とても幼なかった、そう、9歳の時に、私は決して普通の職には就かないと心に決めた。そうさせたのは、ある印象的な出来事だ。残業をこなして父か帰宅した冬の日で、郵便配達夫だった父は雪の中を朝の4時から12時間も足を棒にして歩きまわっていた、帰りつ<なり椅子にへたり込み、実際、なにかを口にする元気もなかった。心底、おなかをすかし、食物にフォークを立てたままくずれおれるようにして眠っていた。私は自分に言いきかせた、こんな風には決してなりたくないとね、…この思いか頭から去ったことはなかった。そして11歳のとき私は芸術家になろうと決意したというわけだ。
 

■ 目に見えるものと直観で捉えたものとどちらを信頼する?
 目に見える方を信頼するね。物ごとか見えれば、それを直観する必要はない、直観は唯一、目では見えない物ごとを扱うときのみ必要だ。
 

■ 目に見えるものごとに維対偽りはないと信じるわけね?
 

 きみはそうは聞かなかった、意味あいがちがう。目に見えるものごとを読みちがえるということはあるかもしれない、しかし、普通私は自分の五感の証言を信じるね。四六時中、幻をみてるとは信じかたい。
 

■ 想像力や思考カは、努力次第で開発できる“筋肉”なのか、それともある人には備わっているけれど、他の人には備わっていない“筋肉”なのか?
 

 努カ次第でのばせるものだと思うね。エドワード・E・デボノという、イキリスの文筆家がいて、思考力の訓練法について何冊も本を書いている。ありきたりの垂直的な思考法では、埒もあかないというので、彼か示したのか“水平思考”という方法だ。その方法を何度も試してみて彼は非常な成果をあげている。もう一人、ウィリアム・J・J・ゴードンは“Scienetics”という本を出したが、これは創造力を引きだす方法に関しての興味ぶかい論文だ。
 “Oblique Strategies”のようなもので、わかってもらえると思うけど、私自身の関心は、創造プロセスはきわめて意識的だということ、そのプロセスに干渉し、もっと効果的にする方法は数多いということを示してみせる点にあるわけだ。単純な訓練が筋肉を強くするという意味では、想像力や、思考力と“筋肉”とのアナロジーが正しいかどうかはわからないし。しかし、自己訓練すれば、勝手知ったる道を行くような安らぎのある既知のものよりも、むしろ未知の領域に飛ぶ込むのを楽しみと感じられるようになる。不安を楽しむように訓練できる。


■ あなたは以前、音楽で一番好きなものは、その神秘性と、当惑に身を委ねる感覚だと言ってたけど、どうしてそんなモヤモヤした目的のためにせっせと仕事を頑張るの?


 一言断っておくと、それはレコーディング・スタジオで可能なことであって、他の多くの音楽的な情況のもとでも可能だというものではない。スタジオではひとつの要素をまず示し、それに調和するのか、対立するかの第二の要素を加える。この第二の要素は、第一の要素を強化するか、あるいはあいまいさをつくり出すか、あるいは完全にバラバラなものとするかだ。
 このうち、あとの二つが興味ぶかい。いずれも、それ以前の全体を変えてしまう、たから突然、未知の奇妙な、どうしても理解できない場にいる自分をみいだすことになる。そんな神秘な感覚とともに生きること、そしてその感覚を利用することはとても大切じゃないかな。


■ あなたは迷信ぶかい?


 断言していいね。まったくもって私は迷信深い人間じゃない。


■ でも、はっきり説明できない X 因子に魅かれるというのは、迷信家ということになるんじゃないの?


 そうじゃない。私がいおうとしているのは知性というものは、説明がつかないものを自分の知識の範囲内で決めつけてしまうということだ。ど'うしてそういうことになってしまうのか。私にはよくわかっている。私にとって刺激的なのは、人をあるレベルヘつき動かすなにかを発見することだ、このなにかは知性ではとらえきれない。それは、丘の向う側がみえるという気にさせてくれるなにか、丘の向う側を見はるかすことができ、その光景心魅かれる、しかし実際にまだそこへ行ったわけではない。それはほんのわずかだが、精神の境界線をおしひろげることに似ている。
 

■ どうしてそう考えるようになったの?
 

神秘家にとってはそうでないかもしれないが、私のようなごく普通の状態に身をおく普通の人間にとっては、事実のすべて受け入れることは、さまざまな矛盾にぶちあたることになる。人間には適応性があり、これらの事実をたやすくしばらくの間忘れ去ってしまう。事実があまり受け入れがたいとき、人はさしあたってそれが存在しないようにふるまってしまうのだ。しばらくして、受け入れなかった事実を、再検討するにたる重要なものだとみなし、再評価することになる。これは遺伝学にアナロジーを求めていいかもしれない。遺伝学では個体のなかに低率だが、突然変異種の劣性遺伝子がふくまれている、突然環境が変化したとき、それらはきわめて重要な遺伝子となる−−突然に種全体を捨てる遺伝子となるのだ。
 これと同様に、芸術において興味ぶかいことのひとつは、時代時代の文化の特質を示す一群の主流をもつと同時に、われわれはこれまた一群の劣性因子−−突然変異種をもつということだ。われわれは彼らの重要性にあまりにもしばしば突然気づかされる。そして再評価するというわけだ。エリック・サティが作曲してから25年もたって、人は彼の音楽に耳を傾け、これは20世紀でもっとも重要なもののひとつだなんて言う。サティか活動していた当時、そんなことを考える人はまったくといっていいほどいなかった。なぜなら時流からかけ離れていたから。彼のアイディアをわれわれが必要とするようになったのはずっと後のことだ。
 知識についても同じことがいえる、人はつごうよく便利な知識ばかりを、選びとり、むさぼる。
 

 音楽が満足を与えるのは、頭脳、心、身体のうちどれかしら?


 もちろん三つともだね。たいていのジャーナリストは、歌の知的内容は専ら歌詞に盛り込まれていると思っている。しかし。意味論的には違うわけで、曲それ自体も知的な意見表明でもあるはすだ。クラッシック音楽は、歌詞の助けを借りなくとも、なんとかそれをやっている。われわれは物ごとに対し、いろんなレベルで意味づけをするものだ。モーツァルトが、こういった趣旨のことを言っている。
 玄人だけが、楽しみを見出せる牧場というのも確かにある。しかし、ごく普通の人だって、その牧場を気持ちいいとか愉快だと感じることは可能だ。つまり、非常に広範囲のレベルで受けとられる音楽を作るよう人は努力すべきだということだ。きみの区分けが完全だとは思えない。ほとんどの音楽は、本来的にひとつのものに訴えかけるものだ。しかし、それは他のものにも訴えかけるのをさまたげるものじゃない。
 

 あなたは以前こんなことを言っています。“私は音楽が一種スリリングなゲームとして意識下的共鳴をもつと信じたい”この言葉はとてもユング的ですね。あなたはこの学派をいろいろ勉強したの?
 

 うん、ある程度。好きな言葉があってね、自分で考えだしたのかどうか覚えていないけど“文化的共鳴”という言葉だ。これはユングのダイアグラムに依存したもので、家族、氏族、民族、人類、動物へと、より大きな系へと個人を結びつける関係網を説明するものだ。このダイアグラムは芸術にも適用できる。あるジャンルの芸術作品の個々の文体論的内容を、個々の文体論的改革へ、普遍的な文体論的ジャンルヘ、その文体が属している一般的文化へ、人類全体へ……という風にね。
 評論家はアーティストを、どんな創意をこらしたか、という観点のみで評価しがちだ。しかし、私は、何をくりかえし、何を無視し、何を採り入れ、何を非難したかという点からアーティストを評価することも同じく大切なことだと思う。前にも言ったが、そのアーティストが何を再評価したかということもやはり考慮しなくてはいけない、古めかしいアイディアが突然、興味津々のものに変わることだってあるからね。アーティストの仕事には、多くの相互作用があるわけだけれど、普通、耳目を集めるのはたったひとつの要素−−いかに目新しいかというだけだ、でもそれは小手先の技巧にすぎない。実際は、そんなもの仕事の4%を占めるかどうかだ。残りは幾層にも重なる他の要素からできている。
 

■ アーティストは先天的なもの、それとも後天的なもの?
 

 難しい質問だね。何が先天的で、何が後天的かという昔からある疑問−−“Nature vs Nurture(生まれか育ちか)”論議と呼ばれているものだ。実際のところ私にもよくわからない。
 でも、脳科学についてより理解を深めると、例えば、ある種の神経伝達器の数が増えすぎると必ず精神分裂症になるといったように脳は化学コンピューターとわかれば、人間は生まれつき互いに異っているとも思えてくる。数年前まで、私も人間は全く似たものとして生まれてくると考えていた、でも脳化学を学んでから、そうした見方は変わってきたね。


■ 脳化学では、アーティストというのは特殊な遺伝学的モデルというわけ?


 そうね、私はふた通りに考えてみたい。C・H・ワディントンという人が、次のような問題提示をしている。人にはふたつの実在があると仮定せよ、ひとつは遺伝細胞、ひとつは環境。この2要素のうちどちらかが異常に強かった場合、精神はひどく圧迫される。科学用語を使わないで説明するのは難しいけど、基本的には一方が異常に強いのは他方が機能しないためということだ。だから、遺伝的なものか、環境かど'ちらかのある程度の変化のみが、人格に影響を与えられると私は思うね。


■ なぜ多くの人たちは変化に反対するのかしら?


 ほとんどの人にとって、変化はとても心をかき乱すものだ。彼らの生活様式に変化はそぐわない。自分の個有の変化やスピードを無視して、他人の生活の型や時間に合わせて暮らしているうち、その型に屈服することに慣れっこになってしまう。
 たえず翻弄され、苦闘しながら、次になにが起こるか不安な気持でいるというのは、とても消耗する生きかただからね。もっともアーティストが求めているのはまさにそれといえる。
 

 音楽は内面的な衝動とか本能によって作られることが多いのかしら。それとも外的な要因やテクノロジー?
 

 ものを作り出す過程において、その双方が大切だね。よくこんな経験をする。家にいて頭の中で考える、こんな風に、ああして、こうして−−、それでスタジオに入ってみると、出だしの音に不意をつかれ、考えていたプランの再検討を迫られるというような。
 テクノロジーと向かいあったとき、アーティストは予期できない要素を処理していかなくてはならない。絵具、フィルム、あるいは肉体、いずれをとわずアーティストはみんなテクノロジーと取り組んでいる。テクノロジーはいつも、人が考えるよりももっと興味ある作用を及ぼすものだ。ドラッグを飲ってなければの話だけどね。ドラッグを飲っているときは、テクノロジーもハッとさせてくれることは少ない。


■ 恐怖心は克服するもの、それとも仲良くしなくちゃいけないものかしら?


 恐怖心を抱いて生きていくというのは御免こうむりたいね。想像カの場合もそうだけと、子供たちのやり方を徹底的に実行してみたらどうかな。子供たちと一緒に遊んでみるとわかるけど、彼らは実際には怖いことなど起こらないんだということを承知している。それでも彼らは怖いことをこと細かく身ぶりまでいれて物語るのが大好きだね。でもこれは恐怖心を呼び覚まさなくちゃいけないという意味じゃない。レーサーにおける症候群は恐怖中毒だと私は思う。マゾヒズムにかんする面白い説かあってね。虐待されると、エンドルフィンという、構造がモルヒネにそっくりな物質を脳が放出する。マゾヒストが心底求めているのは、そのエンドルフィン快感じゃないかとその説はいうわけだ。


■ 現在、西欧文化のなかで、もっとも過大評価されている考えはなにかしら。
 

 こりゃこりゃ、そうね…“自由な個人”という考えじゃないかな。とても過大に評価された願望でね、アメリカ社会にはその徴候がいっぱいある。人間がお互い異なるというのはすごく限定された意味あいで、その差異も皮相的なものでしかない。
 人間ははるかに多くの点で似たり寄ったりの存在だった、が西欧文化の全体的な特色は、このわずかの差異の強調であり、類似性にはカ点をおかない。
 人は自分だけのあれやこれやのモノを欲しがるようにけしかけられ、揚句、これらの物質的な所有物だけが、個性の証しで、それなしでは人は完全でないと信じこまされてしまう。これが消費文化の基盤だ。


■ 他人とは音がちがって聞こえるなて考える?


 左の耳がかちょっとよくない、ど'うして聴こえないか、その仕組みはわからないけと、確かに歌詞は聴きとれないから、他の人たちとはちがった聴こえかたがするようだ。歌詞を聴きとるために私は曲を無視し、言葉に焦点をあわせ注意を集中しなくてはならない。ひとつのアルバムをつくるとき、1ヵ月間、1日に10回も同じ曲を聴くことがある。で納得する。私には言葉を識別できないってね。


■ 関心がないのにどうしてわざわさ歌詞づくりをやるの?


 関心はあるよ、ちかう意味でね。


■ 成功していちばん好都合なことは?


 いちいち、“信任状”を見せなくてもいいことかな。この国の人たちが言う「どこの出身で地位は」なんてこと何度もくりかえす必要がないからね。


■ アーティストはながい間、オリジナリティという暴君的な考えと闘ってきました。全然オリジナルじゃないってことがありうるがどうか?


 いい質問だ、賛成するよ。オリジナリティというのは、人の注意を他にそらすものだ。H・G・ハーネットに「改革−−文化変動の基盤」という著作があって、そのなかで彼は模倣は改革のもっとも重要な形態のひとつであると述べている。あるモノが他の文化にとり入れられると、必然的に変化をこうむると彼は言う。どこか他のところで聞きつけたなにかを再生産しようとするとき、きまって人はその作り方をまちがうものだ、しかしその失敗を人は気に入る、こうして失敗が新しい様式の萌芽となると。
 人間はいつでもオリジナルだ、ただ、ある人はそれを重要なこととみなし、ある人たちはそれを逸脱とみているだけだ。人の言葉の使い方なんて、いつもオリジナルといっていい。いまの私の言葉にして、これまで口にしたことは絶対なかったはずのものだ。人間の思考パターンも同じだね。もちろん意図的にオリジナリティを維持するのが難しい場合も多くある。たとえば形式的な社交の場とかがそうだ。そんな環境でもオリジナリティをつらぬこうとすることはできる。だけど儀礼が必要とさせる場ではオリジナルでないほうがはるかにいい。
 

 あなたの半生で克服しなくてはならなかった最大の障害は何?
 

いつもとびきり重要視される何かをしていなければならないという感情だった。
 

■ 仕事中でも、その感情が最大の障害だったわけ?
 

 ほとんどいつも私はその感情につきまとわれていた。エネルギーの源泉だったね。自分のやっていることをひどくまじめに考えていたわけだ。でも、何か重要なことをしていなければ、という感情を絶えず持っていると、困ったことに、明らかに何の仕事もしてないときの自分を過小評価することになる。そんな時間が本当は大切なんだ。夢を見ている時間と同じ価値がある。日々の生活の中でものごとが選り分けられ、再構成される時間だから。
 絶えず目覚め、仕事にあくせくしていたらそんな瞬間が生まれる余裕はない。仕事の途中で私がきちんとした休憩をとらなくてはならない一つの理由は、特定の方向への傾斜をやわらげるためだ。そうすることによって、逆の方向への傾向も確保しておける。
 

 街から街へ、まるで放浪者のような生活ぶりだけど、そんなライフ・スタイルのどこにアピールされたの?
 

 いや、全然されてないね。私は多様な仕事の場に首を突っ込むのが好きでね。それがたまたま,地理的に別々の所だったから、そうした場をわたり歩かざるをえなかった。現在の心境は一つの場所にしばらく腰を落ち着けたいということだね。以前にも増して放浪をここ3,4年ほど続けてきているわけだが、実際多くの意味でひどい状況だから。
 

 革命的なアイディアをどうしたら見分けられるかしら?
 

 革命的なアイディアに、これだという感じで出会うなんてことはほとんどないといってもいい。最初、それはなんか奇異で、支曄滅裂としかみえない。ビートルズの新しい曲を聴くたびによくそんな風に感じたものだった。う〜んこれは面白くないな、今回の彼らは駄目だ、失敗作だってね。「ストロベリー・フィールズ」なんかがそうで、完全に的はずれで混乱していると思えた。でも、しばらくすると正反対の印象も同じように受けるわけだ。「ヴェルヴェッド・アンダーグラウンド」は、初めて聴いた時にすぐピタッときたね。本物のアイディアに出会った時など、ほかのアイディア類がことごとく色あせてみえてくるね。
 たとえば、私にとって、C・H・ワディントンが提案した"後成的風景"という遺伝学の概念なんかがそれにあたる。一種素人愛好家ふうに遺伝学に興味があったわけだけど、聞きかじった雑多な知識をまとめあげる体系を当時はまだ持っていなかった。ワディントンのアイディアで、あらゆる事柄を正しく関連づけえた。"後成的風景"というのは、ものごとが機能していく道筋の隠喩だった。事実、革命的なアイディアの多くは比喩的といえる。一連の新事実の提示などではなくして、むしろ問題を作成することだ。もし、こんな風に作用したらどうなるか?というね。
 

 そうした本質的なことの他に、生きる上でどうしても必要なものは?
 

 友人だ。掛け値なく。
 

■ 仕事よりも?
 

 そう思う、友人というのは知的同業者、仕事仲間、女友だち、セックスの相手までひっくるめた広い意味でだけどね。
 

■自分の生活をコントロールしてる?
 

 いま現在はまったくしてないね。これまでコントロールしてきたことはないし、しようとも思わない。いつも、私は忌避という一種ネガティヴな生活態度をおし通してきた。たとえば何がおころうと職に就こうなどとは決してしないとか。他に決めていたのは、絶対腰を落ちつけまいということだった。
 

 腰を落ちつけることで、何を失うというの?
 

 何もない。今はそう思う。しかし、一時期腰を落ちつけることは駄目になることだった。私は自分を小さな転がるボールだと思っている。多くの選択肢のなかから、決定を下す唯一の方法は、自分がどこへ行きたいのかわからないから、とりあえずどこそこは行きたくない、と言うことだ。自分が辿っているコースの詳細はとても不可解だし、それについて多少余計に知ったところでたいした意味もない。
 

 不道徳のきわみというのは何かしら?
 

 あらゆるものに先だって嘘をつくということがある。不道徳なことにはすべからく嘘をつくということが含まれていると思うね。私は極度に不道徳だと考える人たち−−たとえばヘンリー・キッシンジャーなんか無視できない証拠があるのにシラを切り通してなんとか切りぬけ、その結果、とても多くの人を傷つけてしまった。
 

 愚かしさは勇気なき行動の言い訳になるとお思い?
 

 愚かしさが勇気のない行動なんだ。キッシンジャーの場合はとても偏向した価値観を受け入れ、容赦なく他人を足蹴りにした人間の見本だね。われわれだってやりかねないけど。おまけに彼はそれでノーベル賞を受けたわけだし、してやったりだな。
 

 アメリカの文化が、その手の容赦のなさを賞讃していると考えますか?
 

 うん、強硬派というのはそうじゃないの。ここでは、それが誇張されているみたいだけれど、別にアメリカの専売特許というものじゃない。アメリカ人は今でもまだ、パイオニアのイメージが好きだね。それがまた、例の“個人”というできすぎの価値観にはねかえるというわけだ。攻撃的な“個人”の方が、ここでは、共同体精神で行動する人間よりはるかに高く評価されている。
 

■ でも、あらゆる歴史を通じて、偉大な活動家というのは、一匹狼になりがちだったんじゃない?
 

 そう。でもそういった行動は、自分の行為が他の人々を利するものだという決めつけからくると思えるね。
 

■ しばらく一緒にいて、世間の人があなたに抱いているイメージと実際のイメージとの大きなズレに驚ろいたわ。陰気くさく厳密な理論家というイメージなのに、実際は機智に富んでいて、ひょうきんなところもあるのね。
 

 うーん。残念ながらロック・ミュージシャンのイメージというのは、ひたすら情熱だけでつきすすむ人間のそれだ。最大公約数的な風貌というのは、何かに掃け口を与える生きものの風貌でね。試しにどれかロックの雑誌を覗いてみれば、どれもこれもこのイメージを助長していることがわかる。
 もし、この紋切型から逸脱すればすぐこう片づけられる。「こいつまちがいなく情熱に欠けるね」って。実際は他の要素とちょっとバランスをとっただけにすぎない。これまでに聴いたうちで、奇天烈なレコードの何枚かはぼくの手になるものだ。「テイキング・タイガー・マウンテン・バイ・ストラティジー」のなかにはとても滑稽なのが何曲かある。少なくとも私はそう思うね。
 イギリス人の方がアメリカ人よりも、私の音楽にあるユーモアを嗅ぎとるようだ。イギリス流ユーモアの方がずっと洗練されている。たくりかえったり、カスタード・パイを顔で受けたりでもすればアメリカ人は喜ぶんだろうね。昨夜、XTC公演でアンディ・パートリッジを観たけど、すばやく、さりげなすぎて観客が完全に見逃してしまうようなすばらし気のきいたことを、彼やったんだ。アメリカ式ユーモアの伝統は悪戦苦闘してギャグを考えだすことだ。疲れますね。でも、そうだね(クスクス笑って)仕事中の自分はとてもユーモラスじゃないかな。
 

 『死の否定』とパう本のなかでアーネスト・ベッカーは、アーティストが、世界を“問題"としてとらえがちなのに対して他の人はそうではないという意見を述べている。賛成?
 

 いや、まったく同意できないね。新しくなにかを創りだす人間は、世界を間題としてとらえ傾向があるし、アーティストの何人かはそれだ。でも大半のアーティストはそうじゃない。私の考えでは、多くのアーテイストに共通の特徴は、不安定な状態のスリルに魅せられるってことだ。何度も何度も、あてどない状況にわが身をつきおとす。たとえ、それが孤立を余儀なくさせるものでも。レコードを作ることなど生命をおびやかすものではない。どうやろうが死にはしないのだ。それでも不意をつかれるような、畏怖させられるようなものが、そこにはある。自分の中に、これに関連づけられるものがあるのだろうかとか、いま発見したものは自分の何なのか、というようなね。


 

後成的風景  くエピジェネティク・ランドスケープ>

生物学における個体形成の全体像を示す光景。発生しつつある系は定められた過程を辿るという根源的傾向を持ち、その傾向は、外的影響や異常な過伝子などの内的な異変によってもその道筋を混乱させることなく、ある定まった場所に定着する、これは混沌とした系のどの部分が足になり脳になり……と変化していくのかという問題の説明がある。いわば、主体でも客体でもない、ある傾向がしだいに実体となって立ち現われる過程を説明したものであり、この全体を後成的風景という。C・H・ワディントンの提出したこの光景を「アイディアの発生」と読み変えれば、ブライアン・イーノのストラティジーに通じる。

 

 
Interview : Kristine Mckenna
Translation : Makoto TAKIMOTO   


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