gif.gif (1473 バイト)

interview 1980

 


 

 ニユーヨークでは誰もが積極的に話しかけてくる、つまり皆アイデアを求めて必死なんです。他人が何をやってるのか知りたがり、自分の仕事にプラスになるものならどんなものでも取り入れようとする。それはイギリスに比べると、非常に健全な状態のように思えます。

 ニューヨークにいると、どんなアイデアでも実現可能だという気がしてくる、イギリスに帰るととたんに、それが不可能に見えてくる。危険なのは、ニューヨークは非常にエネルギッシュで、すべてを完備した街であるが故に、世界の存在を容易に忘れてしまうということです。

イギリスのように、妙なプライドがつき合いの邪魔をすることもなく、誰でも気軽に話しかけてくるのは結構ですが、ヨーロッパでは、人と会いたくない時はそれとなくそれを相手にほのめかす一種のヒントを出せば、大抵の場合それは受け入れられる。しかしニューヨークでは、ストレートにノウと言わなければ、何の意味もないのです。そして私にはそれが言えない。「一人にしてくれ」と言葉にして言う習慣になじめない。だからいつも人に囲まれていました。

プロデュースをやるつもりはもうありません。トーキング・ヘッズをやったのは、人間として彼らが好きだから。その音楽も好きです。プロデュースをしてくれというオファーは、かなりありますが、すべて断わっています。ロックのレコードも、もう作る気はない、曲を作るとか、スタジオで仕事をするとか、過去に於いて使用したフォーマットを追うことはもうしたくないのです。

 ロックには、もうあまり興味はありません。私がロックに興味を持ったのは、単に好きだったということを別にして、私にとってはその時代の「ワールド・ミュージック」だったと思えたからです。世界中に広がる民俗文化というものがあるとしたら、それはロックだ、と思った、しかし今は、もはやそうとは思えません。

  今面白いと思うのは、他の文化圏のポップ・ミュージックです。特に北アフリカの歌は実に美しい。同様にアラビアの歌、彼らは恐らくハーモニーの歴史というものを持っていないのだね、従ってひとつのメロディの展開に、音楽的エネルギーのすべてを注ぎ込む訳です。

  絶えず私の抱えているジレンマは、アーティストとアーティザン(職人)の区別ということです。人はアーティストである前に、まずアーティザンであった。ロックが果たしてどちらなのか私には分らないが、最近私は、ただ単に仕事をちゃんとこなしていく、というアイデアに魅せられています。アーティザン・スタイルがなぜ魅力的かといえば、結局面白いアイデアというのは、自分のしている事に対する一種の卑下から生まれてくるように思えるからです。

 ニューウェイヴに対する私の感想は、これは実はビートルズについても感じたことですが、つまり何かの始まりでは少しもないということだ、むしろ本当は結末なのです。ここにあるこれだけのアイデア、私達には全部分ってます、これを選べば、それはこれぐらいはうまくいく、次のを選べば、それはこれくらい…どれもそこて完結しているんですよ。

 ある意味で、最も明白なものは、最もつまらないということ。音楽の持つ性質で私が好きなのは、途方に暮れるという感じなのだと思います。つまりこれが好きだけど、なぜなのかは説明できない、といった人が作曲家になるのは、そのスリルを自ら再度創り出したいと思うからです。デビッド・ボウイは私にすごい事を言った。「時々詩を書くんだが、全然それが理解できない。」彼の言わんとすることは、非常によく分ります。つまり極めて、意味深長なことをする、そしてにもかかわらず、それが何を意味するのか分らない。さらに言うなら、私にとってロックというのは、もう意味が分ってしまっているのです。

 ロックに関する限り、テクノロジーの可能性は探り尽したと思う。今はテクノロジーを別の方面に使うことに興味を持っています。例えばマルチ・チャンネル・サウンドであり、或いはビデオ・ディスクです。今年1年は休みを取って、カリフォルニアに住もうと思っています。そしてそういう面の実験をしてみたい。ただ、そのためにエキゾチックな場所に行こうとは思いません。前回(78年暮れ)、やはり新しい方向性を探りたくて、一人で考える時間も欲しかったし、それには西洋を出てどこかまったくストレンジな場所に行くのがいいと思って、東南アジアに行きました。が、あまりにストレンジすぎて、で少しばかり圧倒されてしまって、やりたいこともやれなかったから。

 その時は、口語英語の方言というBBCのレコードを持っていきました。普通の人、特に田舎の人の話し方、彼らの話の音楽的な側面に輿昧を持つようになっていたんです。精神的に、私は歌を書くというアイデアをすでに放棄していたから。その理由の一つは、そのアラブの歌を聴いて、自分の声の響きに興味を無くしたんです。

 方言というのは、すでにして音楽であり、音楽的な脈絡の中で、その事実を強調し得ます。

 時として、単一のサウンド・ソース、つまりしゃべっている声のようなものの中には、必要なものがすべてある。複雑で極端な音を作らなくても、そのシンプルなものの中に、何だってあるんです。

 スタジオの中で仕事をするのは、もうウンザリです。何というか、もっとコツコツとやることをしたい、というのが本音です。

 私の作る音と、私の聴く音の間には、かなりの開きが出てきたような気がする。この二者をもう少し近づけるべきではないかと考えています。

 様々な設備を持つ現代では、作り手は聴き手が必要とする2倍の量のものを込めがちです。穴があいてれば、プラグを差し込もうとする。そしてそれがエスカレートする。しかし、リスナーとして求めているものは、もっとずっと少ない。もっとシンプルに、オープンに、そしてゆっくりと物事を考えることだって、できるんですよ。

 ロックは、とにかく急いでいるんだ、急速に変化しているんだ、という幻想を振りまいている。従って時間のスケール全体が、どんどん圧縮されてしまう。同時に幾つかのタイム・スケールで生活できればいいんですが。現在私の生活は、バック・ギアのタイム・スケールです。それは私が家というものを持っていないせいもありますが。常に移動していますから、私は時間というものに縛られない世界に身をゆだねたい。

 私は全ての仕事を捨ててしまいました。何をやっても似たりよったりの物になると思ったから。

 ゲイリー・ニューマンのアルバムには、正直言って少し失望しました。好きでも、嫌いでもありません、ただ…失望したんです。トップ20にアルバムが3枚も入っていれば、何かあるに違いないって誰でも思うものですよ。

 ロックは若い人かやるべきものです、以前はそんなこと思ってもみませんでしたが、今はそう思う。熱意、エネルギー、スピード、それも自然なスピードが必要なんですから。

 ジョン・ハッセルはこう言っています。過去数年のロックの傾向は、アイロニーに向っていると。ある意味でパスティッシュ(贋造)かパロディかそのどちらかになるという訳です。チューブスがその典型です。彼はさらに、私が今真に興味を持つのは、その誠実さということだ、とも言った。私も同感です。つまりパロディなどの反対の極にあるものです。

 しかし反面、そういう音楽はその誠実さ故に非難を受けやすいのです。皮肉っぽい調子のものは、非難できないものですが。新しいザッパのアルバムを聴いてて思いましたね、この男は大変に才能があり、と同時になんて愚かな男だろうと。彼は不まじめにやらざるを得ないんです。自分自身をまじめに考えることを恐れ、それを拒否している。それをすれば、たちまちこきおろされるということを、彼自身知っているからなんです。機知に富んだ道化役者の仮面をとれば、自分をさらけ出すことになる「これこそ私が心底、本当に信じていることなんです」と言うことになる。ザッパは絶対そういう立場を取らない人間です。

 私の仕事を正確に分類するなら、「アイロニックなもの」と「誠実なもの」です。アイロニックなやり方というのは、あるイミでロックの流行をねじ曲げる作業であり、従ってひとつの伝統の中に於ける非常に意識的な作業です。だから、その伝統を十分知った人々に依存しているわけです。

 メタ・ロックと呼ばれる音を作ってきた人人、つまりボウイやロキシーは、製作者であると同時に、批評家としての役割も果している。どの曲をとっても、現在に至るまでのロックの再評価という立場だ。再評価というアイデアは面白い。ただアーティストは普通、新しい方法を生み出す人だと思われているが、実際にその仕事を見ればイノベーションは4%ぐらいのもので、あとは別の要素なのです。

 …列えば、多くの有効な選択権を無視し、すでに在るものを再評価し、反復すべきものを選んで、あとの側面を非難する。従って、「無視」「再評価」そして「非難」、歴史を扱い、それを再使用するには、この三つのやり方がある。批評ということに関して、私が疑問に思うのは、残りの大部分を見ないで、常にその僅かな4%に集中したがるということです。

 私は評論家にはなれませんよ。人の感情を傷つけたくないんです、絶対に。

 


 

聞き手:アーリチャード・ウイリアムス