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interview 1979

 


 

今は何をしているのですか?

 

目下とりかかっているのは…そう、ちょうどきょうDNAというバンドと仕事をしてきたところなんだ。ニューヨークのいくつかのバンドを集めたオムニバス盤を作っている。DNA、マース、ザ・コントーションズ、ティーンエイジ・ジーザス等の各バンドの8、9分程度の曲を収めたシングル・アルバムになるだろう。来週末には終わらせるつもリだ。あとは自分自身のこと。昨日はトーキング・ヘッズのクリス・フランツとデヴィッド・バーン、そしてアー二一・ブルックスとレコーディングをしたのだけれど、アー二一を知ってるかな?ラヴ・オヴ・ライフ・オーケストラのメンバーで…

 

ああ、以前のモダーン・ラヴァーズですね。

 

そう。それからミュージック・フォー・フィルムスというタイトルのアルバムもリリースする、これは過去5、6年間に完成させたサウンド・トラックを集めたもので、アルバム用にセレクトしたんだ。そして売りに出そうと思っているアィディアもある。それはMusic For Airports 。 航空会社でも、誰でも、本当にわかってくれるならば…。

 

Music For Airports   とは?

 

空港と飛行機のための音楽、危険性を否定するためのスペシャル・フライング・ミュージックの名称だ。私がとても神経質なせいか、あの航空関係の音には余計に苛立ってしまう。サウンド・システムはひどく悪いし音自体も何の有効性もない種類のものだ。
“もしこれが音楽の標準なら、いったい飛行機はどうでなくてはいけないのか” と…。

 

ニューヨークのバンドの話に戻りますが、ニューヨ一クのシーンはもう終わった、と皆言いますよね。あなたはそうは思わないのですか?

 

思わない。再び始まろうとLている。

 

何が興味深いのでしょう?バンドの中に感じるものは何ですか?

 

Yeah 確かに共通のものがある。バンドはどれも実験的で、そこが私の好みに合うんだ。例えば、“もし私がこれをしたら次に何が起こるだろうか”的な発想から生じた音楽がたくさんある、という様に私には思える。
オールド・スタイルの発想とは異なったアプロ一チだ。オールド・スタイルとは、“これはいい、これでいこう!”ということ。ともかくここにはプレイする為の少しばかりの知的なアプロ一チがある。ロックにおける言語は常にbadを内包している。皆それを嫌がるけれど、ここには芸術的意識の効用が直感外のところに存在する。否、直感を否定する為ではなく、確かな領域に導く為に。それ自身を無意味に漂わせるよりはむしろリサーチの領域を明確にし、そしてそれを学ぶ為に。
そういうわけなんだ。アーティスト達がここでことばをやりとりするのがいい。イギリスではそういうことはないからね。アーティストというのはたいてい孤立しているうえ、このシーンも他から離れたところにある。モダーン・ダンスのシーン、劇場のシーン、アヴァン・ギャルド・シアターのシーン、映画のシーン、ストリート・シァターのシーン、構造主義者の映画のシーン、エクスペリメンタル・ミューシック・シーン…これらの各シーンは、15人から20人程で成り立ったク'ループばかりで、とてもタイトだから他と接触しようとしない。ロツク・ミュージック・シーンでも同じこと、各バンドはシーンの中の一ファミリーの役割だ。他のバンドと多くのかかわりを持とうとしない。コラボレイションにとても興味を抱いている私にしてみれば、何かを作リ出して行くアクティヴな感覚だけでなく、共に論ずる事がなければこのシーンは死も同様なんだ。現在ここにない何かをよそから得る、というハ一ドな作業だから、実際その余りの対称牲は…つまり、(ニューヨークの)人は君に近づいて来て、君がそれを望むか否かなど考えもせずに話しかける。

 

あなたはそのことによって自分自身を見失うことを恐れてほいませんか?

 

全く考えてはいない。この6週間で私はここで起こりつつあるすべてのことを見つけ出そうとして、毎晩出歩き、多くの人にあって、あらゆる種類の何百というバンドを見た。それはこの事象を徹底的に知り尽くしたいという気持からだった。今はニューヨーカー達についてより以上のことを理解していると思う。彼らは何かの典型になろうなどとは思っていないし私もこの街での文化的な事にしてはかなり包括的な視点をわきまえている。包括的とは、絵画、彫刻、執筆といったものをも含むということだ。そこで慎重さが必要になったのは私が蛇口の周辺で起こっている事を見きわめたかったからであり、実際にかかわり始めて、さて、成し遂げたとなるともう継続は必要でなくなる。ここには確実に私の興味をそそる分野があり、それは私の追求するであろうものでもある。他はいらない。

 

前衛音楽家とパンク・ロッカー達の間にわく同調は、どのように説明するのですか?セックス・ピストルズのアルバムを買う人が果たしてあなたのアルバムを買うでしょうか?

 

その理由は…私はポピュラー・ミュージックには常に2つの主流があったと思っている。1963年以後のそのひとつは明らかにビートルズ、ビーチ・ボーイズなどの洗練されたものだった。でも、その洗練は別の向きに変わって行き、官能的性質を備えて来た。その流れこそ皆が“これがメインストリ一ムだ”と思ったのだけれど、そこにはまた、別の主流があった。誰も気づかなかったのはそれが最近まで成功を修めていなかったせいだけれど、それがボー・ディドリーであり、初期のフー、ザ・ムーヴ、そしてヴェルヴェット・アンダーグラウンドだったんだ。ラフなリズム&ブルース、初期のロ一リング・スト一ンズもそうだったと思うけれど、よリ都市的なアプローチだった。そしてもっとモダーンな、バロック、オ一ケストラの伝統とはかけ離れているものだった。

要するに、それはいつも続いていたんだ。ロキシーはそういう方向をふまえていた、両方の流れをとりまぜたものではあったけれど。新しいバンドは突然、自分達のバッククグラウンドが実はこの流れであることに気づいた様だし。だからとても自然に協調している。そんなバンドのメンバーで私の音楽を聴いている人が少なくないのを知って、正直言ってとても驚いた。イギリスではそれほど親しんでくれる人はいないから、つまり私のソロ・アルバムや、あるいはフリップとのアルバムは買うけれども、作品の全背景を知らないんだ。だから先の同調は私達が音楽に興味を持つ事自体、実験的だという事実。音楽的な点だけでなくライフスタイルや個人の世界観などの点からも実験的だと言える事に基づくと思う。なぜならニュー・ウェィヴに関することと言えば、いらぬ論争にかりたてるわけはそれが単なる音楽フォーム以上のものであることが明白だからであって、社会秩序の含蓄を表面化し得るものだからだ。誰も全く気づこうともしない暗示物を。要するにただ、楽しく過ごそう、より以上の事を意味しているから、だからこそライフスタイルに通ずるものなんだ。むろん、こんな状況では皆が神経をとがらせているのも当然だよ。彼らはニュー・ウェィヴを無視できないからね。ああ、別に君がスウィート・ミュージックに注意を払う必要はないけれど。

 

では、ビフォ一・アンド・アフター・サイエンスの話に移りましょう。あのアルバムでは非常に多くの曲が慎重ながらも、運まかせ的に扱われていましたね。コンセプト上ではかなり一貫性が感じられましたが、どの辺までがあらかじめの計算によるものだったのですか?

 

それほどの計算はなかった。唯一、いろいろな種類の巧妙さは…いや、これでは面白くないから(笑)私の言う巧妙とは、マニュアルなものではなく直感的な頭脳を用いたもので、計算というならそれは私のとったあらゆるレベルでの仕事の手順に関係してくる。
その結果、実際の計算はほとんどなくなってしまった。ただひとつ、あらかじめ用意しておいた3曲、いや、2曲はスタジオにはいる前に私が家で腰をすえて書いたもので、私は思ったんだ、“よし、これをやってみよう、これが始めになるだろう…”とね。スタジオではほとんどの曲が発展して行く。

 

あるインタビューで、あなたは、あなたの科学のコンセプトはとても男性的で、ヴァイオレントなものだけれども、その方法が段々女性的になってきている、と言っていましたね。それは(ビフォー・アンド・アフター・サイエンス)の意識的な部分ですか?

 

ヴァイオレントと言っただろか…私はドミナントと言ったのだけれど、2つの意味はわずかに違うんだ。私はそれを世界を成文化するための用心深い姿勢だと思う。多くの点からしてこれは人間の頭脳には重要な要素だ。“そう、このように世界は動いて行く。そして私たちは予測を可能にする。”仰々にしてこうだけれど、それは悪くない。確かに生存するに必要な人間のあり方だから。私たちは充分装備されてはいないんだ。私達が他のことをしようとするのはそれが自然の直感的な側面だから、しかしこれは根底の部分には影響せず、むしろ成文化、合理化に欠けたシステムに作用する。でも、余リに危険な性質のせいでこれは抑圧されがちだ。私達が防御も正当化もできないという答えを与えてくれるのに。今、科学の方向は世界を記述しようと、そんな傾向を見せ始めていて、世界がたいした変化をしない限りそれがいくつかの分野に影響を及ぼす様子を横目で眺めている。変化を遂げれば、オーペレーションに指令を下すすべての模範は次第に不安定になってゆく。

 

そのビフォー・アンド・アフター・サイエンスの為に130もの曲を録音なさったとか。アクシデンタルな部分が減ってからは、good accident と badなものの区別をどこでつけたのですか

 

それはどこで直感が働くかだと私は思う。唯一の可能な尺度としてどの程度自分で感動できるかだ。もしそれが私にとっても多くの聴衆にとっても一貫した効用を持っているなら、何度もそれを聴いて、朝から晩まで幾日も、そしてやはり興味深いものならばそのままとどまるだろう。もしその影が薄れて来たなら、その時こそ、これはただ目新しいものに過ぎなかったのだとわかる、しかし、直感と個人の理論とのダイアロ一グはとても面白いと思う。本当に保たれるべきものだから、それを対立したカだと見なすのは誤りだ、そんな種のものではない。私はそれを連続の終わりだと考える。その端には論理学があリ、もう一方の端に直覚カがある。そして線上のどこかに直感があり、論理学によって異なるものになった共通概念がある。たとえばの話だ。一つは線に沿って常に移動し、作用点を選ぶ。そして明らかにその影響の決定法は本当に数多くの事象に関連している。

まず最初に、決定しないこと。ただこの連続体の上にいることをわかればいい。君が状況の全側面を知っているならば論理学を操ることが出きるし、その全側面が簡潔に定義されている場合も同じだ。だから数学を使いこなせる人にはその論理学が何らかの助力となるだろう。そして記述と状況の両方に通じる人にも同様。あるいは自分に近い状況に通じる人にとっては共通概念が助けとなる。しかし先例のない複雑な状況に関わっている人にはこのどちらも何にもならない。連続体に合わせて彼方へ行かなければいけないし、その人の反応はより直感に近い何かで表される。自分の生命が危機に晒されるような状況にいる場合、もちろんレコードの上では起こり得ないけれど、敏速に反応を示すので直感などは何の役にも立たない。そしてしばしばこの2つのものは対称の位置にあるように見られれる。というのは、人間の中の論理的な部分は状況のすべてを知っていると信じたがる傾向にあり、また、その状況は定義付けのできる明瞭なものであるとも信じがちで、直感的な部分はもう一つの情勢に気づくんだ。そして他の結論を導く。ここに非常にありがちな一つのケースがある。例えば働いているとき論理学的な視点からこういう、“ほら、もうおまえは支配されている”とね。これは人間の中のクリティックな部分が、かげでこう言うからだ、“ああ、何故そんなに馬鹿げたことをするんだ、何のためにやるというんだ、何がそんなに面白い?”でも実際に面白いことならやり続けるだろうし、論理学は物事の成分を見分けられないから、もしそれに気づけば、それら成分など本当はないものだと装うだろう。スペースを受け入れないのは、それができないからだ、つまりその種の機能ではないということ。

 

レコードであなたはその直感を成文化し、チャンスに基づいたシステムを確立しようと2つのものを合成しようとしているかのように見えますが…。

 

そう..私のしようとしている事とは...すべて異なる様相を示すような仕事を進める際の方法を生み出すことだ。それは一方では洞察の類ではない、フリー・ジャズには典型的なことだけれど。“強制なんて糞くらえだ、何の規則もなしに好きなようにやるさ”これは私にとっては明らかにコンセプト的なまちがいなんだ。理由は、もしこんな事を言い出したら自分のまわりはコントロ一ルの効かないルールだらけになってしまう。機器にまとわりつく限界、人間の肉体的限界、聴覚的な限界….皆、実際は強制にからみとられているのだけれど、気がついていないんだ。
すべての規則を放棄するなどということは有り得ない事だ。物理学の方則は又別の種類の規則でそれは人の行為を支配する。考案し得る音楽のシステムも同様。だからそこには極端が在り、私にしてみればそんな物は何の価値もないのだけれど、前衛音楽的極限もあり、工夫されたシステムは確かにたじろぎもしない。“これがシステムだ。何が頭にひらめこうと、これがシステム、これが結論だ。”私はこの二者間での仕事を望んでいるんだ。第一に意識を持つこと、そして興味深い結果を生みだしそうなシステムをセットすること、しかし直感により自分自身を導き、2つの罠にはまらないようにすること。パンク・ミュージックの多くはこの直感的な罠で終わってしまったようだ。“音楽に頭脳を持ち込むな。取リ除け。障害になるだけの代物だ。”私はこれは事実だとは思わない。どこがダメージになるというのだろう。それによってこそ私達は人間的であれるのだし、人間の行為からそのうちのひとつを除外することは、私にとっては決して面白い実験ではない。
つまり、君は想像しなくてはいけないんだ、ああ違う、想像する必要はない、信じればいい。芸術行為は人間生来の行為とは別のものだ。それは人間生来の行為を特別化したフォームであり、だからそれは何種類かの形態にわかれ、例えそれがアナログ的フォームであっても歴史上の一時期における人間の行動の徴候に関連している。その面白さはフォーム自体が巨大な残像を見せるときであって、行動的瞬間をかいま見るときでも行動のすべてを見るときでもない。

 

あなたの方法は、思いどおりの状況にあるようですが、オブリック・ストラティジィズ、あれはどのように発展していったのですか?どうやって決定したのですか?“私はこうして音をつくりました。”と…。

 

あれは全く無邪気に展開していったんだ。本当に…自分でそれに気づいていたし、事実あれは今も発展し続けている。今までにあれほど明白な作品を残したことがないんだ。自分のしていたことが2つの端を結びつけるものだ、ということも断言できなかった。私は追想していたんだろう。(笑)“ああ、そうだ。私がしていたのはまさしくあれだった。”でも自分自身の中に見たのはより以上のイノセントだった、“どうしたら自分の望む音を得られるだろう?”そしてそれを得たのは、先の2つをミックスしたものを作り上げてからのことだった。私はここにとてもパワフルな自分の求める音楽と全世界への関連視点をつなぐひとつの連鎖があると思う。私がまるでファンシーな音楽を欲さないのは別に事件ではないんだ。“ああ、これはグレイトな音だ。''、これも気まぐれではなく、私の中に何らかの反射を感じるから、それが例えばオブリック・ストラティジィズであるとか…。

 

ではそのことがオブリック・ストラティジィズにある広がりを持たせたのですね。

 

そう、あの始まりはとても興味深かった。なぜなら私逢がロキシーのファースト・アルバムをレコーディングしたときが私には初めてのスタジオ経験だった。そしてしばらくしてアルバムを完成させてから私はそのアルバムを聴きかえしてみた。わかるでしょう、どうしてもアルバムを音楽として聴けない時期があるということ、まるで小部分のひとそろいで決して一枚の絵としては映らない。だから私はアルバムを後者の様にとらえようとした時にこう思った、“この中には改善されるべき多くのアイディアが詰め込まれている。”とね。これはあるアイディアの概略に近いもので、その大半は依然語られてさえいない、不明瞭とさえ言い難い状態なんだ。私は、何故こんな素晴らしいアイディアが浮き上がってこないのか不思議に思ったよ。で、ある日それが起こったんだ。スタジオの中にいることはパニックを受け入れることだ、抑圧されてはいるけれどもパニック、それでもやはり“私はレコードを作らなければならない、だからここにいるんだ、大切なことだ、無視できないんだ。”と思うだろう。そしてこの種の問題を処理するシンプルな方法は、つまりレコードを作るにはこうしてしまうんだ。“OK、きょうはこれと、それからこれと、これと、そしてあれをしよう。”そしてその日のプランを消化してしまうこと。そうすれば何らかの焦点が得られるだろう。自分のたどるべき道も見つけられるのだから、もしこんな計画を立てたのなら、そうすべきだろうね。さて始終起こるハプニングをすべて犠牲にして、他の条件に適応させられ、些細なアクシデントは度外視する。突然生じたサウンドは本当はとても面白いものなのだけれど、眺めるヒマがない、次のことを始めなければならないからだ。そして考える、“これは明日することにしよう。”しかし、明日では遅い。同じものはもうそこには存在しないんだ。スタジオでは複雑なテクニカル・シチュエイション、ソシアル・シチュエイションにいるから瞬間の再生は不可能なんだ。それ自体に問題があるから、シンプルなメディアによる独立した芸術のようなわけには行かない。むしろ洗練されたメディアを用いた自治的な芸術に近い。だからそこには常にユニークな瞬間が存在し、それを捕まえなければ永久に失うことになるんだ。単純なことさ。

どの程度これを利用できるか、作品に用いることができるか、続けられるか、でもどのようにしてこれに注意し、続け生かしていくのだろう?これはウイリアム・バロウズの ’the concept of take’に基づいて、そこで彼は列車の中に座っていることについて語っているんだ。列車が止まる度、彼は顔を上げてそこで目にはいったものを作品の中に書いてしまう。彼の作品はいつも結果的に正接を保っている。私はこれに対する簡潔な解答として成すべきことは、私自身の注意書のリストを作ること、スタジオにいても必要なときに眺められるようにね。そうするとすぐに思いつき出せる。“ああ、これだ。これをしたかったんだ。”と。そして第一のカードは“Honor thy error as a hidden intention.”これは落ち着き払ったリマインダーで、何かがまちがった方向に進むときは必ず自分自身がこんな風に構えているからなんだ。そして何かが突発的に起こると、“必要でないものを取り除け”とは言わず、しばらく成リゆきを見渡して適応させてしまう。君の主張し続けて来たものよりも素敵な未来が待っているかどうか見きわめたらいい。そしてこのような始まりから前に言った小さなリマインダーを作り出そうとするんだ。それは必ず私達にヴィジョンを開放することを思い出させてくれて、1時聞につき150ドル払っていることなど忘れさせてくれる。3、4分の浪費は仕方ないんだ。それが必要なことなら、多分それは浪費にはならないかもしれないし、あるいはそうなってしまうかもしれない。だから私はある期間内で徐々にそれらを作り上げていった。私の友人のピーター(シュミット、ビフォー・アンド・アフター・サイエンスの4枚の絵を描いた人で、他のプロジェクトでもイーノと関わっている)は絵画で同じ方法を試していたんだ。彼にも私にも全く未知だったけれど、私たち二人はこの特別なリストを用いて、最終的にそれを組み合わせた。私たちはそれを計画的なプロジェクトをしていたし、頭の中に特殊なアイディアを思い浮かべていた。そして真剣に取り組み始め完成したものにいくつかを付け加えた。あれは仕事外のところから生じたものではないんだ。

 

ところで、あなたのファースト・アルバムは音的にも詞的にも首尾一貫したスタイルですが、次のアルバムに移る際に多くの連続性が見られますね。

 

そうだね。誰でも独自のスタイルを持たずにはいられないというところかな。日常生活上では、私たちは独自の自然性をほとんど抑圧されてしまっているんだ。唯、不都合という理由で。実際それは私たちにとってもそうで、社会には無条件に不都合なものだ。音楽に関するスタイルについて語るときには、作品自体については何も気づかないというのが真実だとも言えるだろう。余りに明らかすぎるからだ。まるで今はいている靴のようにね。作品は私の行動の一側面であって、付随的なものなんだ、たいていは。あるスタイルが存在するという事実は他の人たちが個人的行動パターンに甘んじるのを避けるような拘束が生じるからで、私の場合これは避けられた。
例をあげるなら、私は思考しようとしない、他のバンドはそうするけれど。レッド・ツェッペリンのような音を出したい、というようなアィディアから始めたら、まちがいなく例の拘束が起きて、方向は非拡大に向かうだろう。だから私はそのようなことに取りかからなかったんだ。

 

続く