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1978.9

 


 

私の最初の衝撃は“アーティストになろう”と思ったこと。11の時だった。

その当時、私の叔父がピエット・モンドリアンの画集を私に見せてくれたことがあった。そのような非象徴的な絵画を見たのはそれが初めてで、それより以前にも私は両親の部屋のパターン化された壁紙に大いに魅き付けられていた。11才になる前に描いた絵で唯一思い出せるの(もちろん私はたくさん描いていたが)“栗色の背景にピンクがかった花”の絵で、これはおよそ壁紙に近いものだったと思う。この様に内容は絵画的でも、システムの自然性がそれを非絵画的にしてしまうことがある。(それはあまりに幾何学的かつ抽象的で、実世界のどのような事象にも属しはしない。)
これが現代絵画と私の引き合わせだった。

6才の時のことも覚えている。“カラーリングしない方法”の例として私が着色した絵を教師は掲げたのだ。その絵はパターンに一貫性がなく、鉛筆の線が互いに交差している(それだけにとても不明瞭な)ものだった。私は自分が明らかな間違いをしでかしたと思い、非常に恥ずかしい思いをしたものだ。

モンドリアンの絵に対する私の反応は即ち強い興味であり、楽しみであった。そのような気持ちはかつて味わったこともなく、まるで目の前にかがやく宝石を並べられたかのごとく鮮明に、その四角形の複写を見たときの気分を今でも私は記憶している。 モンドリアンの次にはカンディンスキーの絵を見たが、こちらもモンドリアン以上に衝撃的だった。カンディンスキーの気に入ったところは、その絵の中に多くの動く素材が織り込まれていることだ。こうあるのに対し、モンドリアンの絵は、静的でヘラルディックだった。画集にある複写では絵画の物理的性質が表れないが私はそれも気に入っていた。ほんものの作品の再生物は本物に比べ品質が劣るという特性にも私は時折出くわしている。モンドリアンの絵はうち伸ばされ、より厳密に、無気力になった。カンディンスキーの場合も、絵が動いているかのように見える、というような種類のインフォメーションが抑圧されていた。
私は Guggenhei Museum で“Pastorale1911”を見たとき、これに気付いた。すべては動いている。

この宇宙にはモニターに困難な静止した不変数がない。がそれらはよりリアルだ。

私の若い頃のもう一つの教養的関心事は音楽だった。数え切れないほど多くのハッピーなアクシデントが私に音楽的な興味深い混合を示唆してくれた、と私は信じたい。

それは;

姉:私より4才年上のとても素晴らしいダンサーでレコード・コレクションをしている。彼女が私にリトル・リチャードやファッツ・ドミノを教えてくれた。

家:私達は2つの空軍基地から5マイルと離れていない小さな町に住んでいた。周辺のカフェはどこもラジオでは聴けないようなめずらしいアメリカのレコードを流していた。格別裕福なこのコスモポリタンの異国人達はミスティックに統合された感覚を私達に伝え、それは美しくも奇妙に揺れ動いていた。その音楽は私を奇妙な世界に誘い、又私自身が古い世界に紛れ込んだよそ者であるかのような気分にさせた。つまり、私は迎え入れられたのでもなく敵対者とされたのでもなく、ただ、その珍しさに直面していたのだ。危険を感じさせないその世界の音楽を好んだ人はみな私と同じような気分でいたと思う。

叔父:(先の叔父とは別人)この叔父は私の父に自分の集めた40年代後期のジャズのレコードをよく貸していた。これも私にとって、非常に風変わりなものだった。憧憬的な感触をその中のいくつかの音楽に見いだし、私は長い冬の間、毎朝、食事をしながら明るくなりかけている部屋でそのレコードを聴いていた。

自動ビアノ:これは1955年に死んだ私の祖父が残したもので、よく賛美歌のエルサレムがなっていたのを覚えている。私はいつもコントロールの効く範囲でテンポを遅くしてそれを聞いていた。ある時には偶然、行商人が通りかかりその間ピアノを鳴らし続け、叔母のガーディーを驚かせたこともあった。

父:偉大なる口笛吹きのひとりで、とても音に敏感な耳をしていた。父の話によれば、本の2,3年前、ウッドブリッジ郵便局のソーティング・デパートメント(訳注:区分け担当の課、彼の父親は郵便局員だった) の中の4人で口笛のバンドを作り、3人は口笛を吹き、ひとりはスネアドラムの変わりに金属製の郵便物分類用の器械を叩いていたと言うことだ。バンドの18番は“Anchor's Away”とのこと。

母:母はいつかロイ・オービソンの“Blue Bayou”を買ってきてレコードプレイヤーのリピートを無限大にして聞いていた。とても美しい曲で、以来母はメアリー・ロビンスとチャーリー・プライドのフアンである。

祖父の家:礼拝堂を改造したもので、幽霊が出る家だった(と母が言った)そうだ。その通り薄気味の悪いところだったが、とても魅力があった。祖父も郵便局で働いていた。趣味はあらゆる種類の器械を修理することだった。オウトマテイックの教会のオルガンまで。

父の置き時計:時計の修理をすることが父の趣味だったので、家の中には時計の音や、チャイムの音が年中響いていた。この様なかすかなノイズに取り囲まれていたので現在の私のキャラクターが出来上がっている。もちろんそのノイズの筆頭は、当時はとほとんど単調な低音としか聞こえなかったラジオである。

そして、いまもって私が予感的に感じる歌がある。それはマイケル・ホリディの曲で、昔、ルクセンブルグ放送でよく耳にした。(この曲が唯一のコマーシャルなきょくで聴取者の好みをよく心得ていた)当時の私の悩みの種はスクール・ディナーだった。毎晩家に戻ると翌日のディナーが気にかかりしかたがなかった。といっても、木曜だけは別だ。次の日がチーズ・パイだと知っていたか裸。そして私は自分の意志で病気になるようなことまで研究したものだが、今はこの才能も自由にならない。

日曜ごとに聞いていた教会音楽をここに書き加えるのも必然のように思われる。それは実際退屈な代物だったが、その唯一の面白さはラテン語のもつリズミカルな性質だった。カソリック系の教会は、偏狭な文学感覚でミサを英語訳することにより、一般的理解の可能なるものを作り出そうとしたが、ここに大きな誤りがなかっただろうか。神秘的な告示は世俗的かつ偽善的な念仏と化してしまった。啓発的な宗教は、ミステリーに関しては、それを事実としてではなく授けられるべくして授けられた経験の一種だとの考え方をもつべきだ、と私は思う。ミステリーとはレヴェルの異なったインフォメイションの一種であり、一つは自身の内側に、あと一つは自身とは無関係の所から沸き起こってくる。

11から16までの間、私はローマン・カソリックのグラマー・スクールに通ったが、ここでのことはまさに灰色の記憶としか形容できない。ともかく半分の期間は何一つ起こりはしなかった。私は困惑し、浮遊状態(注;停学の意もあり)が長く続いた。 そしてラジオが私を救ってくれた。1963年になるとラジオの海賊局がいくつも現れた。そのうちのいくつかの局は本当の面白い音楽を流し放送側にしても本当に自分たちが必要だと感じる音楽を選んでいた。この傾向を今でも何人かのディスクジョッキーは受け継いでいるようだ。あるディスクジョッキーは幾度となくアニマルズの“ハウス・オブ・ザ・ライジング・サン”をかけ、時には番組の中で5回もかけることもあった。ある夏の暑い日、私は深まる興味を胸の内にRiver Debenの河岸に腰を下ろし、ラジオに聴きいった。

現在、私は2つのことに関心を抱いている。一つは絵画、何度か賞を取ったこともあり、誰か友人にもらった画集なども大いなる興味の対象だった。それは私が見た初めての中世絵画だったのだ。 そして音楽。ほとんどの生徒が寄宿舎住まいをしている中で私が通学者であったわけだが、そうやって私は外の世界からの使者の役目を果たし、音楽や女の子の話題を提供した。しかし、ほとんどの仲間は私の位置を重要視せずにいた。彼らの関心事はもっぱら仲間同士の関係にあったようだ。

さて、この様に私が自分の歴史のゴミ箱を点検するのは読者の多くにとって非常に寛大なことだと思う。しかし、この人間の書くことはどこから来ているのかを知ることが私にとってはたいそう有効な情報となる。だが、私が始終この様なことをしているとは思わないで欲しい。自分の行為は自らに明確であるべきだと思ってはいるが。

16になり、私は学校を離れ、アート・スクールに通いだした。そこで私は私より年上の元美術系の学生に出会い、彼らの回想を聞き、アート・スクールとは素晴らしいところに違いないと考えるようになったのである。この頃は私にとって特別珍しい事件もなかったが、ここでも幸運なアクシデントに恵まれた。コルチェスター・カレッジ・オヴ・アートを選んだ。コルチェスターはイプスウィッチ以上に進歩的で(イプスウィッチの方が家には近かったが)建物も非常にモダーンだった。(これは私は気に入らなかったが)。  しかし、コルチェスターに通ってみると、とても容認できそうには思えなかったので、私は再びイプスウィッチに行くことにした。 イプスウィッチ・アート・スクールにはロイ・アスコットという男がいた。聡明な男で、彼は芸術と教育についての新たなるアイディア、アーティストの任務などを考え合わせた完全な機構の元でカレッジを運営しようとしていた。かなりの者はアスコットに対し敵対心を抱いていたがそれも私にとっては彼への関心を増す材料だった。アスコットはまさに開拓者であり、躁病的な信念を得ているかのようでもあった。彼の仲間も彼に比べれば幾分正常ではあったがみな面白い連中だった。その仲間とは、トム・フィリップス、アンソニー・ベンジャミン、 ノエル・フォスター、スティーヴ・ウィラッツ、ストロウド・コーノックなどだ。アスコットは自分の持っている才能とアイディアの奇妙な混合物、未完成の機器の、このようなものに対する着想に優れていた。仲間以外にも、この組織では年長のスタッフが活動していたが、このスタッフ達はアスコットの厳格で少々過激な方法を緩和する役割を果たしていたようだ。しかし、いずれにせよこの組織は非常に効果的なものだったと思う。

イプスウィッチでの経験の特異性を述べるのは混沌を運命とする作業だ。そのほとんどは今も不鮮明だからだ。これは、あそこでの表面上の目的の中に一種、分離的なところがあり、また支離滅裂としたところがあったために予期せぬパラドックスが生じた、そんな理由によると思う。このパラドックスは、しかしながら、現在の私にとってはプロジェクトの明確な自然性と同様、興味深いものとして残っている。

私達が行ったことは主に視覚環境のデザインと人間相互の恐ろしく複雑な関係について、であった。アート・スクールには依然古めかしいしきたりがまとわりついていたが私達はそれを削除し、新しい方向へと切り換えていった。これは本当に健康的な姿勢だが、今の私には容易なことではない。現在の私は自分に下される評価を受け入れはじめ、以来2年間、そのギャップにこだわり続けている。私の物事のとらえ方は常に楽観的でなく、むしろ懸念に支配されているからだ。あるいは楽観は常にその下を流れているもので、何かに覆われている。もっともこれはそうひんぱんに起こることではない。たいていは音楽に関係し、仕事をしている時がほとんどだ。自分の作品に対する自信の欠如、と表現することもできるだろう。だが、作品とは世界に対し攻撃的になるための手段ではなく、明確なテリトリーとなって現れるべきものだ。そして私は少し休養することにした。

 

 

Ambient Music

 

 

この2年間に私の見逃したこと、試みなかった分野が確かに存在している。そこまで手を伸ばさなかったのはおそらく自分自身の反復を避けようと必死に努力していたからだろう。私にとってそれらは革命的ではなかった。それらの共通項である“既視感”の性質はそれ自体が革命的だ、と今、私は考えている。私にとって明確な事物。その明確さを怖れるなかれ、と。

50年代、“Muzak Inc”はある環境における背景要素としての音楽のコンセプトを提唱した。以来総称的には“Muzak”という後でその名を知られている。 この後はある種の特殊な素材を用いて統合された、という意味を持つ。その素材とはMuzak Incが標準以下の、かつ派生的な方法でアレンジし、オーケストラように編曲した音のことである。理解のゆくように言うなら、このことが識別力のある多くのリスナー(そして多くの作曲家)に“環境音楽は注意を払うべきものである”という概念を忘れさせたのだ。

過去3年間、私は包囲物としての音楽の効用に興味を抱いてきた。そしてどのような妥協的方法をとらずとも、場所を選ばずに使用できる音楽の制作の可能性を信じるようになった。この分野での私個人の実験と、レコード音楽に貢献する多くの御用達の作品との差違を明確にするために、私は“Ambient Music”という言葉を用いる。

包囲とは環境、あるいは外的作用と定義されるが、これは一つの色調である。私の意図するところは、限られた時間と状況のために小規模であれ多方面の環境音楽のカタログを作り上げていくという視点のもとに、広範囲の雰囲気、環境に適する、表面的にオリジナルの作品を作ることにある。(排他的にではない。)

 しかしながら、現存するレコード会社は、聴覚的・雰囲気的な風変わりさを覆い隠し、環境を調整するところから始めている。“Ambient Music”はこれを強調する。であるがゆえに多くの一般的なバックグラウンド・ミュージックは疑問、不確実性(つまり全ての真の面白さ)を取り除かれ、出来上がっている。“Ambient Music” はこれらの性質を持続している。そこでこの音楽の目的は、刺激を与えることにより、この状況を有望にすることである。(こうしておそらく、決まりきった手順の倦怠は軽減され、身体のリズムの自然の起伏はその一様性から逸脱するであろう。) Ambient Musicは平穏、そして思考の空間を呼び起こす。 Ambient Music は特殊の強要を必要とせず、いかなる聴取の際の注意の度合いにも適応するであろう。そこには興味深さと同じほどに無視の可能性が存在するからだ。

 

Main Stream vol.7  1979.2


(hataeno)