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interview 1978


 

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Before and After Science

 

以前発表したアルバムを聞くと、簡素さに対する自分の確信に私は驚かされてしまう。そしてまた、当時自分のしていた事を末だに覚えているという事にも。弁解は現在に適応し、かつ合理化させる為に私の時を経た見方というものを押さえ、転換させてしまうものだ。解かりやすく言うと、何か仕事を始めようという時には、それを触発させる根拠をどこかに感じているはずだ。
その刺激というものが、行動の方向づけをしてくれるだろうし、惰性に流れていってしまう事を防いでくれるので、個値があるのだ。
だが一且、仕事を終えてしまうと、その動機は言い訳に変わってしまうのだ。混乱を片付けてゆく事や絡まり合った試み、失敗などが、実際には作品を完成させる。もし作品が定かな疑問に応えていたとしても、それは事の発端に対してなされたあやふやな疑問にである。時折、答を考えた後で質問を作る事があるだろう。
例えば“アナザー・グリーン・ワールド”、の“ザ・ビッグ・シップ”、を例にとってみよう。私はこれを、作品は“身の回りの”スタジオの雑音からでも作り出せるという考え方の証明として作ったようなものだ。勿論、それは可能だ。しかし“ビッグ・シップ”は、私が5年前のその作品のテープを見つけ、以前にノートしていた“ザ・ビッグ・シップースター・システムのように動く”という件りを見つけるに至って認め難いものになってしまった。しかし、その時、それが何かしら新しいものに感じられた。物事には“絶対の真実”はないという気持ちになったのだ。それは、重要な事だ。


自分自身のものでない論理に直面するという事は興味ある事に違いない。
そんな出来事が人を驚かすだろうという期待を持つのは充分過ぎる程、当たり前だ。私の場合、システムの幾つかのレベルに於いて、この暗示をしている。そこには、調字を変えた幾つもの期待がごばんの目のように張りめぐらされているだろう。変更や目新しさが、実際に望んでいた事から脱線しているように思えるといったような。これらのごばんの目が、精神的なものであると同様に肉体的でもあるに違いないという事で、固定してしまう事から逃れられるのだ。つまり、音楽の局面に於いては“思考”と同じように“感情”をも用いよ、という事だ。



弁解を信じるという問題は、いつもあなた方を台無しにしてしまうだろう。
その事が、“もし、システムが完壁であれば”総ては簡潔になるだろうと信じこませるようになるはずだ。しかし、もしシステムが本当に完壁であるなら、探究の失敗をコントロールされた速度によってそれ自身が、認めている事だろう。だから、システムも生存という問題を我々と分け合っているのだ。
そして、我々の逸脱(柔軟さ)さえ、それは分け含っているに違いない。

Brian Eno

 

 

 Eno による Schmidtの絵について、Schmidt による Enoの音楽については、BrianEno − Peter Schmidt 2 へ


rock magazine 13  1978.04          ( by hataeno )