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interview 1978 

 


 

PART  2

 

Interviewer : Ian Macdonald
 

 

 

 

   『ビフォア・アンド・アフター・サイエンス』が完成するのに、普通では考えられないぐらいの時間がかかったとしても、それはブライアン・イーノがなまけていたためではない。このアルバムに含まれている方向とその反方向は、単に音楽的ジャンルの中にとどまらず、あらゆる領域の知的冒険を明らかにしている。イーノは早くから、創造行為における作為的な部分に興味を失っている。彼がとりあげた方法論は明らかに予測出来ない結果が生まれるようにデザインされたものだ、彼の見方では、何かをするための“目的”というのは、惰性を打ち破って、あるひとつの方向に人を向かわせるという意味に限って有効な働きをするというのだ。 従ってこの“目的”そのものは、最も興味深い現象を起こさせるひとつの過程にしかすぎない。イーノはこの2年間に120ものトラックを作り出している。もちろんそれぞれのトラックは全てちがった方法論で作られているわけではないが、それにしてもこのトラック数はずばぬけていて、今まで誰も到達したことのない数字なのだ。

 

 このアルバムは完成するまでに3回ぐらい放り出した。ずいぶんいらいらさせられたし、心も痛めたしね。ある時点で、自分は音楽的に何か完成させる事なんか出来っこないと考えるようになったんだね。今までの作品だって決して完成したんではなく、結局自分が進む方向などどこにもないという認識…。
 結局、自分がやった事に満足してるにすぎないんじゃないかってね。反省したよ。「お前は単に芸術愛好家に過ぎない。十分な情熱を傾けて仕事をしたことなんか無かった」ってね。こうなると自分自身に対する確信の問題になってくるでしょう。ロバート・ワイアットが言ってくれた事だけど、ぼくはぼく自身をもっと作品に託すべきだ、ぼくに出来ることは作品を作ることしかないんだって。

 

 アルバム・タイトルに。特別の意味はあるのかな?

 

 そう、“サイエンス”というのは技術と知識を意味してる。そして、タイトル全体は前科学時代の状況と後科学時代のそれとの類似を指してる。つまり、何か循環みたいなものがあって科学そのものは孤立している。マーシャル・マクルーハンが言ってることでもあるんだ。後産業技術時代と前産業技術時代とは類似しているっていう…

 

 レコードにはイーノの同窓生であり、グルでもあるピーター・シュミットの描いた水彩画がプリントしてあるけど、どうして?

 

 ピーターとぼくとはとても似かよった活動をしてる。彼の仕事の特徴はメディア論の専門的な事項をマスターしたあとでその知識を放棄するんだ。ロバート・フリップも、何かをマスターするまでは技術を放棄するなんて出来ないって言ってる。技術を度外視して仕事するか、技術を駆使しながら、それに固執しないで仕事を続けるかのどちらかだってね。そのあいだに中道なんかあり得ない。そういう道に進むことは人を盲目にしてしまうことだし、脱れられない檻を自分自身で作り出してしまうことなんだ。

 

 あなたの仕事に関してはどうだったんだろう。

 

 自分の音楽の構造を生みだすこと。このアルバムを作ってて学んだことなんだけど、自分が望んだ結果を得ようと思ったら、ハードにハードに仕事を続けなくちゃいけない。その問のプロセスは自動的に組み立てられていくんだ。
 つまり、ぼくは作品そのものに導かれていった。何か不測の事態が起こると、それに従う。今回はそんなに楽じゃなかったけどね、そうしてると、自分には少しも興味がない方向へ進んで行くみたいだった。そういう時ぼくはある段階で学んだ特殊なアウトプットを別様に適応させるような技術が必要になってくる、今まで得た技術はたよりにならなくなった。
 このレコードで、自分の方法が最後のところまできてしまったのかどうかはわからない。自分の仕事に対する確信も、そんなわけで持てなくなってきてるし、今度の作品は、重いヒューマニティから生まれてきてるっていうよりも、むしろ気まぐれから生まれてきたと言えるんだ。
 わかるかな?実験的な試みというより、むしろ自分白身に対する合理的な疑問というようなものが動因になっていたし。

 

 そして、彼は全くちがったロケーションでプロジェクトを最初からやリはじめることになる。

 

 普通ぼくはあるひとつの対象物から内容へと移っていく事にしてる。今度はたくさんの対象物を設定して、それぞれにいくつかの内容を選んで、ひとつひとつにくっつけていった。だけど、これは成功しなかった。いくつかのトラックは、そんな訳で、何回も作りなおされた。まず、3分間ぐらいのインストルメンタル曲を何曲か作った。それをダビングして編集しなおして、8分ぐらいの曲にする。最後にその長さに合わせて歌を入れていくんだ。
 そうしてそれを最初から聞き直してみたんだけど、全部ダメ。またインストルメントを分離させて、もう一度リミックス。結局、歌の長さは、最初にちょこっと入った方がいいってことになった。まったく気が狂いそうだったよ。最終的に3回のメ切の約束に間にあわなかった。
 このアルバムが気に入ってもらわなくてもいいんだ。もし足げりにされても、買ってもらえなくても、それはそれで不満を表明してくれたことだからね。とにかく、不満を言ってもらうことは、今のぼくにとって大事なことだからね。またぼくを新しい方向に向けてくれるんだし、自分の行動を変える必要があるっていうことだからね。

 

 ここで筆者は、アーチストの“社会的機能と責任”について書いているイーノの文章を引用しておきたい。「私は、芸術の機能(アーチストにとってもファンにとっても)、は、多少なりとも現実の世界と似通った部分をもった虚構の世界を提供することと、その虚構の世界の中で、現実の世界の倫理の中では危険すぎたり不可解すぎたりする、新しい行動のパターンを探究してみることにある」
 では“危険すぎたり不可解すぎたりする行動のパターン”は、安全なレコーディング・スタジオの中で注意深くリハーサルしてあるものだろうか。うーん、何らかの作品を作ろうとしている人は、必然的に規則とか人間関係に触れることになるでしょう?

 

 ウイリアム・インプソンという人の『あいまいな表現・7つのタイプ』っていう本を読んでたらこういう事が書いてあった。ぼくらが“つまらない”という表現を使うのは、一番もっともらしい結果を説明するのに、一番もっともらしい過程をあてはめることであリ、“面白い”という表現を使うのは、それが全くナンセンスに説明されることだって。あっ、ちがった、ごめん。ウイリアム・インプソンじゃなくてレナード・メイヤーだ。例えば君が作曲する場合にね、最初の何小節かでキイはどれか、テンポはどれか、リズムはどうかって決まってしまうでしょう。いったんそれが決まってしまうと、コンテクスト全体がどこか“危険”な部分を要求してくるわけ。ぼくがいう“危険”でいうのは理にかなった方法からはずれるってことで、決して物理的なものじゃないんだよ。
 コンテクストというのは、曲を聞く人に、「次に何が起こるかわかるだろう」って語りかけてくるものなんだ、アーチストの方でもどう展開していくかわかるし、次に何が起こるか何が起こらないかを知ってるよね、レゲエのリズムみたいに。レゲエは次にきっとビートがくるって思わせといて、結局こない。そういう感じね。
 それで、実生活の中でそういう行動を人がしてくれるとすごく印象的だよね。その場合は音楽上のコンテクストじゃなくて生活上のコンテクストっていうのかな。そういうものにいつも君は関わってるでしょう?そういう時に、普段の反応とはちょっとちがった反応をするとか、あまりにもあたり前な反応を示さないとかして“行動のパターン”を学んでいくと思うんだな。

 

もう少し具体的な例をだしてくれない?

 

 うん、いつもいっしょに演奏したことのないような人とスタジオにいたとしよう。その人にぼくが心に描いてたアイデアのスケッチを伝えて彼らは演奏してくれる。それが。すごくうまくいくか、もうメチャクチャになるかするよね。
 今度はその同じグループに家を建ててほしいって頼むとする……あるいは実用的な基準で結果を判断できる何か他の仕事をね。ちょっと極端だけど、こういう時がばくのいう“危険”に出会うきっかけなんだ。全く使いものにならないか、全然居住できない家ができるかもしれないからね。

 

 うーん、なるほどね。

 

 同様に、そのグルーブで政府を作ることにしてみても結果は同じだと思う。もっとも、政府っていうのは実際こんな風に作られるから、うまく機能しないんだけどね(笑い)
 音楽の話しにもどって、実験的なことをやる理由っていうのはどうやって彼らにぽくの考えを伝えるか、どうやって彼らが適応してくれるかを確かめあうことにあると思う。ここで大切なことは「よし、やってやろう」って自分にいいきかす滅多にないチャンスにであえる。もちろん、そういう“危険”を無意味だとして見すごすこともできるしね。

 

 自分のとっている現実の行動には、別に大した意味などないと仮定すると、イーノのいう“危険な行動”をよく理解できる。この点について、イーノの“虚構の世界”と“現実の世界”という二分法は象徴的だ。

 

 ぼくの”虚構の世界”という言い方にほとんどの人が反対するんだよね。というのも、彼らは芸術は苦悩との闘争か何かだと思ってる。
 だけど、それこそ虚構の世界だよ。芸術活動にどれほど深く心情的にかかわろうと、そこから肉体的な苦痛を受けることはないよ。だって、観念的な世界にかかわっている人は、いつだってその世界から身をしりぞけることができるじゃない。

 

 確かに芸術作品を体験することは行動の一部を変更することになると思う。私が理解しそこねたのは、イーノが人間の精神に起こる“変化の度合”とよんでいるところのものを、一般の科学者がどれほど計測したがっているか、ということだった。

 

 うーん、科学者じゃなくて普通の人でも理解できる行動に関する変化の例を示してあげようか。それはまた芸術の世界でも並行して展開してることだから。クラシックでトラディショナルな芸術は説明的で頂点のあるものなんだ……。(イーノは自分のノートに上昇する曲線を描いた)
 だけど、現代音楽は……例えばスティーヴ・ライヒみたいなね……平坦な線で連続的なんだ。現代の工芸品ていうのは、ほとんどそれ自身の様式をもっているし、現代絵画はたくさんの焦点をもっているんだ。

 

 反権威主義的な行き方なわけだ。

 

 その通り。トラディショナルな音楽や芸術のもっている見方は“この部分は大事、あの部分は大して重要じゃない”って具合なんだよ。説教的で、絶対的に階層的な思考にもとずいている。ロックは民主的ね。ロックの曲はどれをとっても、共通した連続体のひとつのセグメントなんだけど、今書いたこういう上向きの上昇力っていうのはない。ビッグ・ヒットしたどんなシングルをみても過去から生き続けてきて、これからもずっと生き続けていくような連統体の一片のスライスのように思えるんだ。
 このことは、さっき言った行動のパターンの話に符号していて、すごく興味深いんだ。ところが、トラディショナルな芸術の見方は想定されたゴールに向かって一歩一歩近ずいていこうとしている。
 でも、現代の人々は予想される未来のことよりもむしろ現在のために生きているように見えるんだ。今の人は自分達の生活を、辛福な状態になるためのいくつかの段階的なプロセスだとは…思わなくなっているよね。少なくともぼくはそう。 若い人達だってきっとそうだと思う。

 

 年配の人だって、今にそれを認めるようになると思うな。階層的というか権威主義的な考えっていうのは奇妙なもので、現代的な考えをしてる人の中にも前ぶれなく侵入してくるね。

 

 うん、ぼくも最近はこの階層というものについて以前とは別な考えをもつようになってきて、それに対して否定的じゃなくなった。
 ある存在が他の存在の上にあるっていうより……(彼は自分のノートに、今度は並行直線を描いた)もっと循環性のあるもので、重箱みたいにそれぞれの階層を維持している。サイバネティクス論者のスタッフォード・ビアーが言ってることだけど、人間の神経組織は5つの顕著な階層に配列されているってね。古い軍隊組織みたいに、トップのレベルが下部のレベルに命令を伝えるっていうんじゃなくて、下部のレベルが処理し得ないような情報は上部のレベルが取り扱う、という風に考えてみたい。

 

 私達二人は喉が渇き、紅茶をかきまぜながら、テープに耳を傾けた。
   -------なんか、あんまり深みのない音だね。

 

 君が言いたい事はわかるよ。もっとこのアルバムに対してやるべきことは無かったかって、自問しているんだ。

 

 それはあなたがさっき言っていた行動主義の限界じゃないのかな。感覚を数量化してしまうような。

 

 一番困るのは、何かを観察している時のようには、感覚について正確にしゃべることはできないんだよね。

 

 申し訳ないけど、ぼくには、今、あなたが言ったことは認められない。あなたが様々な推測を展開していくにつれて、正確な専門用語がどんどんとびだしているし、あなたの感覚はちゃんと伝わってきてる。

 

 ピーターがぼくのプレス・キットに書いてくれたこと覚えてるかい?そこには2語づつの言葉があるよね、例えばね…“exotic reasonableness”(エキゾチックな合理性)とかいうこれらの言葉はある方法で感覚的なものを言い表わしていて、すごく面白いと思うんだ。

 

 その言葉で何を想い浮かべる?

 

 ちょっと考えさせて………うーん、そう……日没。ここ3年間日没を見るのが好きで、ずっと観察してるけど、幸福感と感傷的な気持を同時に感じられる。どんな日の入りも、必ずどこか違うからね。果てしなく日没が繰り返されているけど、各瞬間は必ずどこか違っているし、同じ日没が起こることは決して無い。こういう感じを想い浮かべるなあ、自我が消滅しちゃって純粋な感覚の受け手になってるような…。

 

             続く