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interview 1978


  

PART 1 2

 

Interviewer : Ian Macdonald
 

● 交通事故
 

  「丁度1週間ほど、何かひどい目にあうんじゃないかという気がしきりにしてね。16の時に盲腸炎にかかる前と、74年に最初で最後のツアーをやって肺炎にかかる前もそんな予感がしたんだ。
 何か災難にあう前っていうと必ず感じるんだ。メディア論を研究したり、オポーテュニストとしてプロの活動を初めて以来、自分ていうものがどこへ行くのか、自分ていう存在はいったい何なのかなんていうことは考えなくなったんだが、それ以来だね、こう…予知みたいなものを感じ始めたのは。
 “ミス・シャピロ”っていう曲を作り終えた頃だったな。あれ、この曲は初めてレコーディングした曲だったかな、なんて考えてるうちに何百ヤードか歩いてしまったんだね。気がついたときは、タクシーがこっちへ向かって直進してくるのが見えた」。

 タクシーは50キロぐらいのスピードでイノ(原文ママ)に突進してきた。カレは本能的に身をかわしたが、一瞬遅く、車は彼にぶち当たった。カレの足をひき、すっ飛ばされたカレは駐車して いた車に頭をぶつけた。あちこちのパブから人が集まって来て、誰かが救急車を呼んだ。
 イノは両眼のあたりに伝わってきた生暖かいものは血じゃないかと気がついた。頭に手をやると、頭蓋骨がパックリ割れるような気がして、救急車が着くまで、彼はそれが半分に割れないようにしっかりと押さえていた。数分後彼は病院のタンカに乗っかっていたが、それでもなお頭をしっかりと押さえていた。

  「恐ろしかったよ。ずーっと意識があってね。馬鹿だよ、おまえは、自業自得だ、なんてひとりごとしてた。何か、事故の責任みたいなものばかり考えてて、事故そのものがどうなってるのか、全然考えなかった」。
 看護婦が「何してるの」と彼に尋ねると、「頭が割れるんで、しっかり押さえてるんだ」とイノは答えた。
 

● 美術学校時代
 

 ブライアン・イノはサフォークのウッドブリッジという村で 1948年5月5日に生まれた。16歳までデ・レ・セイレという、教会の修道女と修道僧に教えを受けた彼は、以後、イプスウッチの2年生の美術学校へ通う。

  「美術学校へ行ったのは、陳腐な職業に就きたくなかったから。職につくってのは、何か罠に落ちるみたいに思っててね。そのころは、実際そういうものから逃げるのが、僕の人生の特徴みたいになっていね。職業というものに固執しないこと、職業という ものから遠ざかること。
 幸運にも、いい美術学校へ行けたよ。ロイアスコットという男が経営してたんだけど、この人が、本当の意味の教育家だった。彼と彼のスタッフが取り組んでいたのは、技術を教えるということではなくて、創造的な行為というのはどういうものかについて真剣に考えさせることだったんだ。
 座って絵を描くかわりに、様々な議論や自己探求のプロジェクトに関わっていった。例えば、『精神の地図』を描く試みなんか があって、様々な状況に対して自分達がどういう行動をとるかを一連のパターンに組み立ててみて、そこから一人一人がどんなタ イプの性格を持っているかを判定する。
 それが終わると今度はその正常な反応とは全く反対の行動をと るようにする。つまり、例えば君が外向性のタイプだったら今度 は内向的なタイプに、指導者タイプだったら従者タイプっていう風にね。僕は者タイプになって、誰の指示にも従わなけりゃいけない。反抗したり、小細工してその指示の実行をごまかしたりしないで。
 ほとんどの人間がうまく出来たね。ある女の子など、意気揚々として、活発になったりしてね。彼女が自分自身を鎮める方法は脚をビッタリ閉じて椅子に押しつけれぱいいんだ。リリーっていう別の女の子ほ、すごく神経遇敏な子だったけど、最後にはつな渡りだって出来るほどになったよ」。

 この時期に、イノはトム・フィリップという学校のスタッフと知り合い、彼を通じて現代音楽家、ジョン・ケージの著書『サイ レンス』に出あい、アヴァン・ギャルドの作曲家、コーネリウス・カーデューの学校にも通い始めるようになった。
 

 ザ・フ−との出会い
 

  「まず、ジョン・ケージが言ってる“芸術は目的のない遊戯 だ”という考えに賛成した。次に、芸術は禅における瞑想のようなものだと考え始めた」。

 この頃ザ・フーが『マイ・ジェネレーション』というアルバムを発表。イノはLPを聞く。「へーえ、ロック・ミュージックって やるもんだなあ、と思った。以前まで、ロックなんてあまり説得力がないと思ってたんだよ」。

 イノは同窓生でギターを弾いていたアンソニー・グラフトンといっしょにマックスウェル・デーモンというグループを作る。

  「あのクリスマスの夜だったと思うね。彼といっしょになって、彼がギター弾いて、ぼくが歌って、生まれて初めての曲が出来 上った。インスタントな作曲ってやつだね。まだそのテープもっ てるよ。曲名が“エリス・B・コンプトン・ブルース”。すごいギターソロがはいってるんだ」。

 1970年、イノはレディングのアヴァン・ギャルド・コンサートで一度出会った事のあったサックス奏者と再会する。そのプレイヤーも同じ興味をロックに対してもっていた。そして彼の口からパンドの結成の話を聞いた。この友入がロキシーのアンディ・マッケイ。

  「そのバンドがロキシー・ミュー-ジックだったって訳さ。プライアン、アンディ、グラハム・シンプソン、それとぼく。最初はテクニカル・アシスタントとして参加する予定だった。というのも、ぼくはレボックス社の製品をもってて、デモ・テープを作る のに彼らが使いたがってたんだ。アンディ・マッケィがもちこんできたシンセサイザーもあって、そいつの面倒もまかされた。徐々にロキシーのメンバーになっていったんだね。このグループにはいって成功するとは思わなかったけど、他にやることもなかったし、しっかりとしがみついたわけ。他のメンバーがぼくの事気に入ってくれたって聞いた時は驚いた。ブライアン・フェリーは特に好きだった。初めてみんなと会った時は別にパーソナリティ間の違いみたいな間題は無かったけどね。その時代は本当にキツかった。収入も無かったし……ぼくが機器の修繕したり、アンディがバンを運転したりしてね」。
 

● 詞の問題
 

 イノの最初のソロ・アルパム『ヒア・カム・ザ・ウォーム・ジェット』の宣伝のため、彼は74年アメリカに渡り、ラジオ番組に出演している。
  「48回ぐらいのインタビューに応じて、いささかしゃべりすぎたみたいだった。自分自身の方法論を適応してみて、どれが有効か、どれが有効でないかを選別してみた。アプローチの仕方などで、半数のものはけずってしまった。例えぱ、“サム・オブ・ゼム・アー・オールド”なんかは、今はもう聞くに耐えないよ。詞は馬鹿げたもんだし……。
 だけど、その時の風変わりなムードは、今回の『ビフォア・アンド・アフター・サイエンス』でもどってきてるんだ。『ウォーム・ジェット』はあまりいい評価をしてもらえる作品とはいえない。批評をはぐらかすような部分が多分にあったからね。もし、このアルパムを気に入らなけれぱ、そいつは聞く方の欠陥だよ、なんて風に開きなおってたんだね。
 本当に自分で気に入ってるのは、“デッド・フィンクス”、“ベイビーズ・オン・ファイヤー”、“ドラィビング・ミー・パックワーズ”、それから“ブランク・フランク”。
 ぼくは今、もう一度歌詞っていうものの存在について考え始めてるんだ。ファースト・アルパムに使われていた歌詞は、単純に、音声部に何かさせようというぐらいの根拠でしか使われてない。あまり固定しすぎた意味を歌詞に与えちゃうと、音楽的な次元の拡がりがなくなってくる。
 君が記事を書く時は、君自身もってるものを露わに出来るよね、でも、ぼくの場合はちがうんだ。例えぱ君は、“おれはすごく感傷的なんだ”と書く事出来るけど、ぼ<の場合、そういう書き方には興味が無いんだ。心理学でいう抑制みたいなものでもなくて、つまり……言うべき事が何もないっていうことね。メッセージももってないし、言葉に書きつけておくほど重要な経験もしたことがないっていうような状能。
 歌詞の機能について問題にしているんだよ。ぱくが好きな曲っていうのは、すべて歌詞がある。歌詞があるけど、意味がよくわからない。
 例えぱ、ベルベット・アンダーグラウンドの曲に“ホワット・ゴーズ・オン”ていう曲があるけど、それにこういう歌詞がある。“I'm going up, I'm going down / I'm going to split my skin in two”この歌詞が言いたいことに何となくわわるだろ?その何となくっていうのは、特定な意味じゃない。しかも、はっきりした陳述がないにもかかわらず、明確な感情があらわれている。


● チャイナタウンの絵ハガキ − 801の名づけ親
 

  自作に“デッド・フィンクス”って曲があって、こういう歌詞なんだ。“Oh, please sir, will you let it go by / Cos I failed both tests with my legs both tied/In my case the stuff is all there / I've never been so sad for a very long time.”
 この歌詞は舌がもつれて、面接試験か何かに失敗して、赤面してる男の子を想いおこさせる。だから、こんな風に絵で表現したものを添付してある。ラブ・ソングっていうのはこういう配慮は必要ない。ラブ・ソングはひとつの声明文だからね。ラブ・ソングはなるぺく書かないように注意してるけど、これは数少ない、ぼく流のラブ・ソングね」

 サンフランシスコのチャイナタウンで、イノがショーウインドウのディスプレイを見ていた時、中には中国の史劇をフイルムにした映画の絵ハガキが置いてあった。その史劇のタイトルが、 “Taking Tiger' Mountain by Strategy” だった。

  「これがおれの詩だ、と思って興奮した。“Taking Tiger' Mountain ”ていう言葉は中世趣味風だし、民族伝承的な感じもあるし、なんとなく趣きがある。“by Strategy” - 実に現代的で機能的な感じ。
 その絵ハガキを買って、いろいろとそれについて思いめぐらしてみた。ニューヨークに着いたら、ランディっていう女性の家に行った。メスカリン飲んで少し眠ってたんだけど、そこで夢を見たんだ。女の子のグループといっしょに歌ってたんだ。
 丁度港に入ったぱかりの船員達、彼らが "We are The 801 / We are the Central Shaft"って歌っていた。すごく幸福な気持で眼がさめて、今夢で見たよ.うな歌詞こそ、自分が書こうとしたものだと思った。
 とりわけ、さっき言ったように、おしつけがましい、声明文みたいなところが、全然なかったからね」。


音楽専科 1978.2 

 


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